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「日本語教育」で研究するということ [つぶやき]

少し前ですが、友人と研究のことについて語る機会があり、そこで話したこと。自分が、いつか、このような姿勢を忘れることがないように、という意味でも、ここに残しておきたいと思います。

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 「日本語教育」という研究分野は、大変若い。そのため、この専門分野での研究の蓄積というのは、それほど多くなく、よく言えば「可能性が広がっている」と、悪く言えば「やったもの勝ち」となる。

 「やったもの勝ち」とはどういうことか。

 いかなる専門分野であっても、研究というものは、「これまでの研究成果を踏まえたうえで、新しい発見、もしくは、新しい見解を、客観的に示すもの」というセオリーがある。

 そうだ。研究とは、「これまでの研究を踏まえて」いなければならない。どこまで研究が進められ、どこに矛盾点・問題点があり、どこに自分が着目するのか、具体的・客観的に説明できなくてはならない。もうひとつ。「新しく」なければならない。研究者、オリジナルのものでなければならない。

 この2つの点は、日本語教育のような、よちよち歩きの分野の場合、どう考えたら良いのだろうか。決して、「踏まえるものがなくて踏まえようがないから、踏まえなくて良い」とか、「なにやっても新しいんだから、なにやっても良い」、などにはならない。なってはいけない。

 「日本語教育」という分野は、非常に多くの分野からアイデアを得ることができる。英語教育はもちろん、第二言語教育、教育学、人類学、社会学、言語学、心理学、などなど、である。それらの分野は、すでに立派に成長し、とぎすまされ、研究手法なども確立されている。研究成果の蓄積も日本語教育とは比べものにならない。

 となると、ここは、それらの蓄積のお世話にならない手はない。

 ここで、道が2つに分かれる。ひとつは、それらの分野に入り、そこで研究の成果を出す、ということ。もうひとつは、あくまでも成果やアイデアなどは「拝借する」にとどめ、あくまでも自分の位置を「日本語教育」に定める、ということ。

 これら2つの違いは重要だ。そして、わたしの個人的な感想として、日本語教育という研究分野が、純粋に「研究」と呼ぶには到底及ばないレベルのものまで「研究」と呼ばれ、業績とされ、結果、研究分野として不安定な状態であることは、これら2つの間をふーらふーらしていることにある。

 対照研究、誤用研究など、言語をターゲットにしている研究ならば、言語学の研究手法にのっとって、言語学的に、「新しい」研究成果を出すべきである。そこがゴールになるはずである。言語学の業績は、その多くは英語が占めており、日本語を題材にするということ自体で「新しい」となることもあるが、言語学研究としてきちんと示そうとするなら、ただ「日本語だ」というだけでなく、「日本語はこのような言語であり、よって、日本語を題材にするとこのような点について新しいことが述べられる」というところまで、いかなくてはならない。

 日本語教育の研究は、言語に関するものが、圧倒的に多い。それらの多くは、日本語という言語について、何かし解明しているのだが、悲しいのは、終始、言語学的視点で述べられ、最後に、「日本語について明らかにすることは、それを学習言語とするものにとって、役に立つことだろう」、というところがつくところだ。その”しっぽ”をつけていることで、「日本語教育」の研究をしている、ということになっている。これが、わたしが言う「2つの間をふーらふーら」である。

 間違いだ。おかしい。研究として、だめだ。これがまかり通っていては、日本語教育は周囲から認められない。

 「日本語研究」を「教育」まで持ってくるのなら、研究者が一体どういった教育哲学、教育的思想、理論の上でそれを論じるのか、示さなければならない。言語学的研究成果は、それを示すための材料になるだけだ。誤用研究であれば、「誤用」とは、「間違える」とは、「母語話者的発話」とは、それらを比較することに、何の意味があるのか、それらが前面に出されなければいけない。言語学習者の学習ゴールは、母語話者に近づくことだ、と考えているのか。いや、それは違う、ある特定の事象での誤用が問題なのだ。それなら、その事象を対象とすることに、どのような意味があるのか。それらが、主張されていなければならない。

 「日本語について少しでも明らかにすることは、学習や教育の場で何かしらの役に立つことだろう」

 そんな研究は、だめだ。それなら、そんな”しっぽ”は消去して、言語学の畑で研究成果を出すべきだ。教育とは、そんなぬるいものではない。

 ・・・と言いながら、これを書いているわたし本人、これが難しかった。自分が研究を進めるうえでは、この点については厳しく考えていた。しかし、周りの人に、自分の研究を説明するのが、これがとても難しいのである。

 わたしは、修士論文を書くにあたり、心理学から多くのアイデアをいただいた。実験をいくつか行い、そこから発見があったが、その具体的・個別的な発見が、わたしが論文として述べたかったことではない。その発見から、教育の現場を見ると、そこには、改善・検討されるべき教師のエゴがあり、学習者に対する誤った先入観があり、また、新しい学習法を模索する可能性が見えるのだ。そこが、わたしの結論だ。しかし、周りの人が興味を持つところは、どうしても実験の個別的なことになってしまい、「その先」に興味をもってもらうように橋をうまく渡すのが難しい。

 難しい。難しい。だから、今わたしはここに書き留めているのだが。

 「日本語教育」のなかで、「日本語」と「教育」が、同じように重要視され、論じられることが必要だ。「日本語」が強すぎる。「教育」が弱すぎる。「人」が対象の研究であるべきである。「言語」ではない。

 ちょっと、言いたいことが数珠繋ぎになって切りがないので、ひとまず、中断。


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かーびー

初めまして。検索から来て、拝見させていただきました。

今、自分が興味を持っているところだったので、「うん、うん」うなずきながら読ませてもらいました。

やっぱり文字になってるとすっきりと分かることってありますね。自分でなんとなく考えていたことがここにはありました。

また来ます。よろしくお願いします。
by かーびー (2007-01-31 18:23) 

mamemama

かーぴーさん。辿り着いていただき、ありがとうございます。

blogで、頭の中のアイデアやもやもやしたものを、文字にするようになってから、私自身とってもすっきりしています。昔考えていた、ちょっとしたことが、今の研究のいいアイデアに繋がることもありますし。

かーぴーさんは、どんなことに今興味をもっていらっしゃるのでしょうか?ちょうどヒットする記事があったら、いつでもコメントしてくださいね。
by mamemama (2007-02-03 10:47) 

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