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教務主任の資格 [つぶやき]

 求人サイトを何気なく眺めていると、「主任」ポストの募集が。その横には、「日本語教育振興協会の定める主任教員の資格を有するもの」のようなことが書かれている。

 そのポストに応募する気はないが、興味があったので、調べてみることに。日本語教育振興協会のサイトに行ってみた。

(以下抜粋)
(主任教員の資格) 10 主任教員は、日本語教育に関する教育課程の編成など教育的知識・能力を備えた者とし、常勤 の日本語教員又は日本語研究者として3年以上の経験を有する者であるものとする。 ② 主任教員は、専任教員のうちから選任するものとする。

ひっかかることその壱
ー「3年」でいいのか?少なすぎないか?

ひっかかることその弐
ー「研究者」の経験でなっていいのか?

 かねがね思っていることにつながる。「日本語教育」と呼ばれる世界は、「教育」より「日本語」が元気だ。日本語に長けていることと、教育に通じていることと、どちらが重要であろうか。どちらも。でも、どちらのほうが?しかも、教務主任なら?

 いつかは、日本に帰りたいだろうか、と自分の中でディベートをすることが、ふと、ある。今の自分の経歴なら、どうやら、「教務主任」になれる様子。実際、過去に応募したところで、「主任に興味はないか?」と聞かれたことも。

 わたしは、教務主任になれるのだろうか?勤まるのだろうか?

 自分のことは、自分が一番分かっている。わたしは、日本語能力試験に、しばらく関わっていない。日本留学試験が本格的にスタートしたころには、もう、日本国外にいて、それに本格的に関わったことは、ほとんどない。ガイドラインも知らない。それらは、日本国内の日本語教育機関で働くには、ずいぶんのマイナス要素になるだろう、少なくとも、まず自分で勉強しないといけないところだろう、と自分では思う。

 それに、わたしはしばらく初等・中等教育に関わっているので、高等教育、もしくは、高等教育予備教育機関に関わるのは、ちょっとしたブランクがある。経験はある。知識もある。でも、鈍っているのは、確か。

ーーー
 と、ちょっとだけ考えたけど、そういえば、自分には、日本の日本語学校と呼ばれるところで教える気持ちは、当分、起きそうにない。なんといっても、初等・中等教育が、おもしろすぎるのだ。

 

「日本語教育」で研究するということ [つぶやき]

少し前ですが、友人と研究のことについて語る機会があり、そこで話したこと。自分が、いつか、このような姿勢を忘れることがないように、という意味でも、ここに残しておきたいと思います。

= = = = =
 「日本語教育」という研究分野は、大変若い。そのため、この専門分野での研究の蓄積というのは、それほど多くなく、よく言えば「可能性が広がっている」と、悪く言えば「やったもの勝ち」となる。

 「やったもの勝ち」とはどういうことか。

 いかなる専門分野であっても、研究というものは、「これまでの研究成果を踏まえたうえで、新しい発見、もしくは、新しい見解を、客観的に示すもの」というセオリーがある。

 そうだ。研究とは、「これまでの研究を踏まえて」いなければならない。どこまで研究が進められ、どこに矛盾点・問題点があり、どこに自分が着目するのか、具体的・客観的に説明できなくてはならない。もうひとつ。「新しく」なければならない。研究者、オリジナルのものでなければならない。

 この2つの点は、日本語教育のような、よちよち歩きの分野の場合、どう考えたら良いのだろうか。決して、「踏まえるものがなくて踏まえようがないから、踏まえなくて良い」とか、「なにやっても新しいんだから、なにやっても良い」、などにはならない。なってはいけない。

 「日本語教育」という分野は、非常に多くの分野からアイデアを得ることができる。英語教育はもちろん、第二言語教育、教育学、人類学、社会学、言語学、心理学、などなど、である。それらの分野は、すでに立派に成長し、とぎすまされ、研究手法なども確立されている。研究成果の蓄積も日本語教育とは比べものにならない。

 となると、ここは、それらの蓄積のお世話にならない手はない。

 ここで、道が2つに分かれる。ひとつは、それらの分野に入り、そこで研究の成果を出す、ということ。もうひとつは、あくまでも成果やアイデアなどは「拝借する」にとどめ、あくまでも自分の位置を「日本語教育」に定める、ということ。

 これら2つの違いは重要だ。そして、わたしの個人的な感想として、日本語教育という研究分野が、純粋に「研究」と呼ぶには到底及ばないレベルのものまで「研究」と呼ばれ、業績とされ、結果、研究分野として不安定な状態であることは、これら2つの間をふーらふーらしていることにある。

 対照研究、誤用研究など、言語をターゲットにしている研究ならば、言語学の研究手法にのっとって、言語学的に、「新しい」研究成果を出すべきである。そこがゴールになるはずである。言語学の業績は、その多くは英語が占めており、日本語を題材にするということ自体で「新しい」となることもあるが、言語学研究としてきちんと示そうとするなら、ただ「日本語だ」というだけでなく、「日本語はこのような言語であり、よって、日本語を題材にするとこのような点について新しいことが述べられる」というところまで、いかなくてはならない。

 日本語教育の研究は、言語に関するものが、圧倒的に多い。それらの多くは、日本語という言語について、何かし解明しているのだが、悲しいのは、終始、言語学的視点で述べられ、最後に、「日本語について明らかにすることは、それを学習言語とするものにとって、役に立つことだろう」、というところがつくところだ。その”しっぽ”をつけていることで、「日本語教育」の研究をしている、ということになっている。これが、わたしが言う「2つの間をふーらふーら」である。

 間違いだ。おかしい。研究として、だめだ。これがまかり通っていては、日本語教育は周囲から認められない。

 「日本語研究」を「教育」まで持ってくるのなら、研究者が一体どういった教育哲学、教育的思想、理論の上でそれを論じるのか、示さなければならない。言語学的研究成果は、それを示すための材料になるだけだ。誤用研究であれば、「誤用」とは、「間違える」とは、「母語話者的発話」とは、それらを比較することに、何の意味があるのか、それらが前面に出されなければいけない。言語学習者の学習ゴールは、母語話者に近づくことだ、と考えているのか。いや、それは違う、ある特定の事象での誤用が問題なのだ。それなら、その事象を対象とすることに、どのような意味があるのか。それらが、主張されていなければならない。

 「日本語について少しでも明らかにすることは、学習や教育の場で何かしらの役に立つことだろう」

 そんな研究は、だめだ。それなら、そんな”しっぽ”は消去して、言語学の畑で研究成果を出すべきだ。教育とは、そんなぬるいものではない。

 ・・・と言いながら、これを書いているわたし本人、これが難しかった。自分が研究を進めるうえでは、この点については厳しく考えていた。しかし、周りの人に、自分の研究を説明するのが、これがとても難しいのである。

 わたしは、修士論文を書くにあたり、心理学から多くのアイデアをいただいた。実験をいくつか行い、そこから発見があったが、その具体的・個別的な発見が、わたしが論文として述べたかったことではない。その発見から、教育の現場を見ると、そこには、改善・検討されるべき教師のエゴがあり、学習者に対する誤った先入観があり、また、新しい学習法を模索する可能性が見えるのだ。そこが、わたしの結論だ。しかし、周りの人が興味を持つところは、どうしても実験の個別的なことになってしまい、「その先」に興味をもってもらうように橋をうまく渡すのが難しい。

 難しい。難しい。だから、今わたしはここに書き留めているのだが。

 「日本語教育」のなかで、「日本語」と「教育」が、同じように重要視され、論じられることが必要だ。「日本語」が強すぎる。「教育」が弱すぎる。「人」が対象の研究であるべきである。「言語」ではない。

 ちょっと、言いたいことが数珠繋ぎになって切りがないので、ひとまず、中断。


日本語教師になるには - その壱 [つぶやき]

 「どうやったら日本語の先生になれますか?」と質問されて、どう答えるか。

 A 「お金を払えばなれますよ」
 B 「大学や専門学校で勉強したらなれますよ」
 C 「日本語が母語だったら、就労ビザさえあればなれますよ」

 ・・・A, B, C, いずれも、正解。

 では、それぞれについて、わたしの超個人的なビリーフを含んだ説明をする。

A 「お金を払えばなれますよ」

 3つの選択肢のうち、どれが「絶対なれる度」が高いかというと、わたしはAだと思う。そう、お金さえ払えばなれるのだ。

 日本語教師という職業は、非常にあやうい。資格は、ない。免許も、ない。だから、「誰でもなれる」という状況もありえるわけで、そうなると、雇用条件は幅広くなる。下手をすると、「買い手(雇い手)市場」になる。安い給料でもいい、むしろお金を払ってでも、日本語教師になりたい、という人がいれば、お金のほしい団体は、そっちにふれるかもしれない。

 「とにかく、どんなものか、この目で確かめたい!」という人にも道が開けているわけで、こういうチャンスを利用するのも、手かもしれない。わたしは、このような選択肢に反対はしない。これをきっかけに、この仕事に目覚め、勉強を始め、結果、その後立派に職業として日本語教師を続ける人も、多くいることだろう。

 「能力がないのが分かっていて授業をするのは無責任だ」、「日本語教師という仕事を趣味かなにかとはき違えている」、「きちんと勉強した人の雇用機会を奪うのはよくない」という声もあるかもしれないが、雇用環境というのは、個々で大きく異なるわけで、その場に直接関わる、<雇い主(受け入れ先)><雇われ手(参加者)><学習者>の間である程度、納得がなされていれば、問題はない、とわたしは思う。

 <学習者>のことを、よーく考えなければならないのは当然であるが、だからと言って、知識も経験も豊富な人がベストとは言い切れないはずだ。彼らの求めるものは、一様ではないのだから。

 よくあるのが、欧米などでTA、つまり、ティーチング・アシスタントをする、というケース。現地の言葉(多くは英語)も上達する!という売り文句がついていたりする。こういうところは、そもそも「アシスタント」なのだから、責任が軽い。その反面、大した経験は積めないかもしれない。しかし、このように、「経験もない人には大切な仕事をまかせない」という、学習者を大切にする当然のことが行われているところでは、教育の水準が高いことが多く、本人のやる気次第で、いい勉強になるかもしれない。

 そのほか、発展途上国など、日本と物価が著しく異なる国では、「現地で生活できるぐらいのお金」が給料として支給されるのも、よくあるケース。往復の航空券や引っ越し費用、保険、ビザの取得などは本人持ち、となり、結果、足が出る、ということも少なくない。しかし、このような職場での可能性は、まさに未知数で、通常の職場ではまさかできないような仕事ができたりする。それを、一生懸命試行錯誤をしながら経験として積んでいくか、それとも、「どうせ大した給料もらってないんだし」と言って、適当に流すか、それは、本人次第。

 単に、その地でロング・ステイがしたいから、とか、その地の言語を習得したいから、という理由だと割り切って、日本語教師の職を「その場にいられる理由」にする人もいると思う。わたしは、そういうのに、反対しない。そのように、生活が精神的に充実していて、その土地やそこで話される言語、文化、人々を愛しているということは、その人の人柄を豊かにするだろうし、それは、きっと教育にもあらわれる。もちろん、仕事をまともにこなさないのは問題である。さぼってはいけないし、目の前の学ぼうとする人に親切でなければならない。それは、人間として基本中の基本だから。とはいえ、言語的な質問にずばりと答えることができない、などは、たいしたことではない。なんといっても、この仕事、「人そのもの」が商売道具だ。知識は、それを強化するものにすぎない、とわたしは思う。自信で、日々精進すれば、よい。

 現実的な、就職の場合の話。まず、英語圏などのTAを、経験として考慮しない、という機関は、少なくない。ボランティアも、然りである。だから、「経験年数」に計算できないという点で、TAの道は履歴書上で不利かもしれない。一方、途上国での、低賃金での就労は、「経験年数」に加算されるはずだ。

 いずれにしても、それは、履歴書上の話。それらの経験から、自分は何を得、何が成長し、何を考え、それを次にどう生かすことができるのか、それについてしっかり自分の言葉でアピールすることができれば、よい。

 この業界、謙遜は損以外のなにものでもない。売りにできるものがあるなら、自信を持ってどんどん出したほうがいい。

 投資は必要だが、「実際の経験を積む機会が得られる」という点では、お金を払ってでも現場に関わるという、このAの選択肢は、悪くないと思う。そこまでした経験で、結局何も得られないような人は、きっと、そもそもこの仕事に向いていない。それを見極めるためにも、悪くない選択肢だと思う。

 次回、その弐は、B「大学や専門学校で勉強したらなれますよ」について、書く。

(異論、反論、質問、言い足りないので付け加え、など、なんでもコメント、大歓迎です)


被験者の心理 実験者の心理 [つぶやき]

 朝、再放送されていた、ビートたけしがやっている『○○アンビリーバボー』という番組を観た。おおまかな内容は・・・

 ある社会心理学者の行った実験。牢獄での看守と服役囚の心理を探るもの。牢獄に蔓延する、看守による暴力や支配者的なねじまがった意識がどのように生まれるのかを捉えるのが目的で、疑似的につくられた牢獄で、実際に、被験者に看守役と囚人役になってもらって、自由に暮らしてもらった。被験者は、健康な大学生で、実験の内容を細かく聞かされて、それに了解した者。相当の額のお金をもらうことになっていた。

 実験者であった○○教授は、「何も指示されなくても、元々は全くそのつもりがなくても、ただ、看守と服役囚という人間関係があるだけで、看守はえらそうに、そして、暴力的になるのだ。人間とはそういう生き物なのだ。」という予測を持っていた。

 で、実験が走り始めると、おもしろいように見事に、予測通りに被験者たちは動く。むしろ予測以上に、早い段階で、悲惨な状況になった。服役囚役の学生は人権を侵害されるようなことを看守役の学生にさせられ、なかには精神に異常をきたす者も出てきた。

 実験者の○○教授は、それを見て・・・「やった!思った通りだ」と喜ぶ。アシスタントをしていた周りの大学院生が、「これ以上続けるのは危険です」と言ったが、「これは重要な実験なのだ」と言って、中止にしようとしなかった。

 結局、状況を心配した牧師が弁護士に訴えて、実験は中止になった。○○教授は、自分が暴走していたことに、やっと気が付いた。教授は、その後2年にわたって、被験者全員に対し、カウンセリングなどの心理療法をほどこした。「あんなに冷静で、厳しく、真摯に研究をする人なのに」と○○教授のニュースを聞いて周囲は驚く。

= = = = =

 少し考えさせられた。

 わたし自身は、実験を行う、心理学的手法をつかった研究をしている。しかし、それは、認知心理学であって、社会心理学や、臨床心理学のような、「メンタル」な面には興味のない学問だ。「メンタル(心)」ではなく「ニューラル(脳神経)」。だから、基本的に、異なる学問だ。

 しかし、わたしは、この教授の心理がとてもよくわかる。そして、「自分も気をつけないといけないぞ」と自分に言い聞かせた。

 実験者は、実験の結果を予測して、その通りになると、喜ぶ。その「予測」が、この例のように、悲惨なものであり、研究もそもそも「こんなに悲惨なことって起こりうるんですよ」を社会に訴えたい、という目的であっても、喜ぶ。元々が道徳的な意識で始められた実験であっても、悲惨な状況が生まれると、喜ぶ。それは、実験の成功を意味するから。

 被験者は、事前に詳しく説明を受ける。そして、それを了承したうえで、実験に協力する。実験を行っている時点で、被験者は名前を失い、ただの被験者番号を持つ人になる。実験の手続きとして、これは大切なこと。実験者の目にも、被験者は、生身の人間というより、結果を生むコマのように映る。実験である以上、これもよくあること。

 それが、怖い。

 第一言語について、成人を対象に行う実験で、しかも、知らず知らずの間にやっているようなミリ秒単位の言語処理を見ようとする研究なら、問題ないだろう。しかし、第二言語だと話は少し違う。実験といえども、それは、被験者にとって、学習の過程で遭遇するイベントになる。実験的に、人工的に、極端につくられた状況であるとはいえ、事前にその説明を受けているとはいえ、「うまくできなかった」「大変だった」などのマイナスの感情が、心の傷になるという可能性は、ゼロではない。

 勉強している言語がなかなか思うように上達しなくて、はがゆい思いをしている人が被験者になった場合、実験的に、さらに悲しい成績を残すはめになったら、やっぱり、それは、悲しい。

 もちろん、こちらも、「これはあなた個人の能力を測るものではありません」「テストではありません」「評価することはありません」などと、あれやこれやと説明するけれど、でも、普通の人には、そんな実験的な背景なんて分かるはずがない。悲しいものは、悲しい。

 そして、その「悲しい」が、実験者にとって「嬉しい」であることも、ある。ここで挙げた例のように。

 わたし自身も、被験者が思ったよりも成績がよくて、がっかりしたことがある。隣で見守りながら、間違えろ、間違えろ、と心で祈ったこともある。

 今のところ、わたしの行った実験に協力して、心の傷ができた、という声は聞いたことがないけれど、普通そういうものは、実験者の耳には届かないものだ。どこで、だれが、どのくらいのサイズの、どんな思いをしているか、わからない。

 でも、やっぱり、実験は、被験者の顔をのっぺらぼうにして、擬似的に環境をつくって、意図的に結果を出そうとするもので、そこは変えられない。

 しかし、大変極端な話だけれど、被験者の心に悲しい気持ちを生んでしまう可能性も、ゼロではない、ということは、知っておかないといけないな、と思った。

 ・・・という堂々巡り。
= = = = =
 ある実験の被験者になった友だちの話。実験者が知り合いだったということで、こっそり自分の結果がどうだったのかを、実験の数日後に聞いた。そうしたら、「外れ値だったから、除外したよ」と言われた。その子は憤慨した。個人差を認めないのか、と。自分だって、人間なんだぞ、と。(通常、いかなる理由であれ、実験結果は、実験者以外が知るはずがないのがセオリーだけど。)

 わたしは、それに対して、「外れ値は除外しないといけないものだよ」と言った。それは、統計としても、そうするのがセオリーなのだ、と。そこは、譲ってはいけないところ。方法としては、厳しくしなければ。そのぶん、標準偏差が大きいことなどをつっこんでその実験を批判していけば、実験の計画としての穴が見つかって、被験者の設定や、そもそもの研究の発想から問題があったことになる。そういう切り口で議論が進むはずだ。

 そういう厳しさもいるけど、被験者の心理にも配慮しないといけないな、と、今朝テレビを見ながら思った。そういう意味での「心理」に興味を持っていない実権だからこそ、気が付きにくいことかもしれない。

 そういう意味では、言語処理の単純な実験でも、承諾書にサインを求めるアメリカの実験の進め方は、その危険性をよくわかっているのだろう。


修士論文が審査されました [つぶやき]

 日本の大学院を修了するには、修士論文が審査を通らなければいけない。わたしの論文はというと、7月末日に提出し、8月8日に審査が終わった。

論文題目:『第二言語としての日本語の書記産出行為における書字と音韻使用 ー記憶資源の観点からー』

 長い。自分でも不覚ではあるが、こればっかりは仕方ない。

 「日本語教師」と呼ばれる仕事についてから、わたしは実は、ずっと悲しんでいた。ときどき、腹もたてていた。

 学生が書いて提出したものを前に、

「○○さんこんな初級文法間違えてる。やばいよ」
「さっきできてたのに、次で間違えてる。読み返せばいいのに」
「このひと母語の作文もあやしいんじゃないのかな」

 などの言葉に。

 そうかもしれないが、しかし、これは、然るべきケアをした教師にのみゆるされる愚痴のはずだ。

 自分が第二言語でライティングをすると、絶対わかるはずのことを棚にあげて、学生の不勉強を責めるのは、間違っている。

 第二言語で文章を書いて、さて、完璧にできることってあるだろうか。そうそうない。わたしは、まず、ない。では、知らないことだからできていないのか、というとそうでもない。語彙や文法を直されて、「あーなんでわたしこんなこと間違えたんだろう」と悔しくなったりする。簡単なことでも間違えるのだ。

 それが悔しいと分かって、何度も読み返したりするが、それもそれで辛い作業で、結果的にライティングが時間と精神力のやたらかかる作業になってしまう。

 英語母語話者の、特に英語教師志望者なんかに添削されると、「英語の文章というのはねー、こういう構成になっているんだよ。覚えておいたほうがいいよ」などと言われたりして、「そんなん日本語も一緒じゃ」と吠えたくなることもある。「知っとるわい」と。でもできないんだ、と。それは、本当に、悔しい。自分が、頭が弱いと思われたようで、母語の日本語はきっと論理的な言語ではないんだ、とか思われたようで。

 成人だと、母語そのものや、母語での言語能力まで勘違いされて、それは、辛い。この人って雑だ、読み返さないなんてやる気が足らない、のように、性格だって疑われかねない。

 ・・・という発想そのものは、これまでもあって、それは、ピア・レスポンスや、読み返しを促す、などといった活動に繋がっている。1度でできなくていいんだよ、みんなで考えたら、ちょっとずつできるようになるよ、という感じ。

 ダメだとは言わない。でも、わたしが学習者だったら、なんだか子どもじみていると思う。「1度でできなくてもいいんだよ」って言われたって、1度でできるに越したことはないし、それを望む気持ちをへし折ることは教師にはできない。これは、大人の理性だ。

 ピア・レスポンスは、車いす。わたしが考えるのは、リハビリ。

 歩くのが大変な人に、「車いすがあるから大丈夫ですよ」というのも、ある。そうとしか言えないときも、ある。しかし、「一緒にがんばって歩けるようになりましょうね」とも言えるはず。

(この流れでいくと、文法の誤用ミスを指摘する、などという行為は、「足がちゃんとあがってないですよ」とか「ひざ曲がってないですよ」などという言葉を投げかけているようなもの。当の本人が、そんなこと分かっている場合、これほど腹のたつ言葉があるだろうか。しかも辛いのは本人だけ。もし、辛い目に遭っている人に手を貸して助けることをせずに、外野から指摘だけをするなんてことがあったら・・・もう、それは人として問題でしょう?)

 どうやったらリハビリが効果的にできるか、つまり、どんな運動をしたらどこの筋肉に届くのか、こういう症状の人はどこの筋肉が弱いのか、そういうことを知っていないと、いいリハビリはできない。

 それを「少し」明らかにしたのが、わたしの論文だ。

 理学療法士の友だちと、研究について、数時間まじめに話し続けたことがある。わたしたちの考えは、とてもよく似ていて、お互いびっくりした。わたしたちは、ふたりとも、患者さん(or学習者)の持っている力を信じたいと思っていた。できる力を引き出せるよう、何か手伝えないか、と考えていた。そして、それは理学療法士の彼としては、「当たり前でしょ」という感じ。

 そう。そうなんだ。教師、とかく言語の教師は、そんな当たり前のことも忘れてしまっていることが多い。言語ができると、できない人に対して、えらそうになったり、かわいそうだと思ったり、よしよし、と思ったりしがちだ。そんなのおかしい。普通に接するべきだ。成人なら特に。その人の持っている能力を尊重するべきだ。

= = = = =
 と、力が入ってしまったが、わたしの論文の背景にあるのは、こういった考え方だ。わたしは子どもの頃から、人の言うことを聞くのがだいっきらいだった。人に教えられるのも嫌いだった。それから、少しませていた。子どもだったときも、先生に「よしよし」扱いされると、むかっとした。高校生のとき、「です・ます」を使って、学生たちを、「みなさん」と呼ぶ先生は、大好きだった。

 だから、自分が教師になった今、自分のような学生がいても大丈夫なようにしようと思っている。
 
 だから、研究をしても、そこだけは押さえたい。わたしたちは、たくさんの能力を持っていて、それを認めてもらわないといけない、ということ。

 少々、雑な文章でした。すみません。力が入ってしまいました。


理解と産出は労働量が違う [つぶやき]

 おもしろい現象が身近に起こったので、書き留めておきます。

= = = = =
 友達のIssとおしゃべりをしていました。彼は、英語母語話者ですが、沖縄在住歴長し&沖縄loveレベルが高い、ということもあり、とても流暢なうちなーぐち(沖縄の言葉)を話します。日本語学専攻で、アカデミックな日本語にも触れることがおおいはずです。そして、私のほうは、というと、もちろん日本語母語話者で、で、さして日頃のおしゃべりにはそこまで苦労しないぐらいの英語はできます。日頃、英語でアカデミックなことまでしています。つまり、わたしたちは2人共、完成度は別として、さして混乱をきたさずに第二言語(Issは日本語、わたしは英語)でやりとりができるわけです。

 しかし、私も彼も、かなり疲れていました。お互い体調も万全でなく、何より、寝不足でした。

 でも、私たちは、おしゃべりがしたかったのです。だらだらと、下らないけど、でも、好きなこと(沖縄の音楽とか三線教室の練習の様子とか)について、話すことはいっぱいありました。久しぶりにおしゃべりをしたので、近況報告のレベルでも、話題は盛りだくさんでした。

 で、私たちがどのように会話をしていたか、というと、それぞれが、自分の母語で話していました。そして、それぞれが、相手の発話をばっちり理解して会話を進めていました

 聞く(理解する)のはいいのですが、話す(産出する)となると、なんだか大変なのです。疲れるんです。しんどいんです。もう、2人とも、他の自分の研究のことで、頭は疲労しきっているのです。で、これ。

 それに加えて、Issは英語の先生歴あり、わたしも日本語の先生歴あり、という背景を持っている。おせっかいながら、「第二言語でやりとりするのは、いくらか勉強になって、良いだろう」という教育学的考えも、多かれ少なかれ持っていたはずです。実は、要は、自分が面倒くさいだけなんだけど、「だからまあ、いいか」という甘えがそこから来る、ということです。で、これ。

 具体的には、

Iss: How are you doing?
mame: あー、ぼちぼち。Issはどうよ。
Iss: Yeah, I'm fine, I やめた job in Japanese restaurant.
That's why I'm fine, haha.
mame: Wow. え、あの、角のレストラン?
Iss: Yeah. 水が合わなかったわけ。
mame Metaphonically, 水が合わない?
Iss: You know, they're trying to make their restaurant kind of a...
mame: 豪華な感じじゃろ?
Iss: And traditional, yeah.
mame: 分かる、分かる。

 こんな感じ。この調子で、すっごくスムーズに会話が進むんです。で、話し手の感想としては、とっても「楽」でした。

 このストーリーから、何を感じるか、というのは、これを読んでらっしゃるみなさんに、感想は委ねます。色んなことが言えると思います。おもしろくないですか?


ひとを測るものさし [つぶやき]

 「mamemama、英語、教えたことある?」

 SLS(Second Language Studies:L2教育について考える研究)のクラスでディスカッションをしているとき、ときどきされる質問。私は、この質問が、大・大・大嫌いだ。「言語教育=英語教育」と思いこんでいるのがしゃくに障るところは、もちろんのこととして、教師経験を知って、それでどうなるんだ、と言いたい。

 私は、日本にいても、実年齢より若く見られることが多く、それがここ米国にいると、なおさら若く見られる。さらに、そこに拍車をかけて、私の使う英語は、満足なアカデミック英語でもなく、そのたどたどしさに、クラスの英語の先生(もしくは予備軍)(<--クラスメートは、だいたい英語教育関係者)は、私について「まだまだフレッシュな、言語の先生を夢見る若者」という先入観を持つ。

 悪いが、私は、履歴書上、「夢見る」どころか、「新米教師」はとうに卒業していて然るべきところまで来ている。

 でも、「それがどうした」と言いたい。

 「○○年、教えてます」や、「○○で教えてました」など、自分のバックグラウンドを前面に出すのは、変な先入観が先立って、その人の持っているもの、考えていること、視点のするどさ、などを靄に包んでしまう。実際の経験からしか出来ないコメントというのは、確かにあると思うが、しかし、個別的な例(「こんなことが授業であったんです」「学生からこんなこと言われたことがあるんです」など)を挙げることより、その次、「だからどうした」のところ、その個別例から何が言いたいのか、のところが欠けていれば、全く意味はなさないと思う。

 全く教師経験がない人だって、言えることは、山ほどある。逆に言えば、何にも染まっていない分、純粋なするどい視点でものを言うこともできる。その人の発言について、経験の有無やその年数、どこの学校を卒業しただとか、バイリンガルかそうじゃないかとか、そういう情報は、余剰なもの。

 私は、教師になって1年目のとき、「1年目だからって、なめんなよ」「若いからって、なめんなよ(当時は、実際に若かった)」と思って、ぎゃーぎゃーと発言していたし、それで良かったと思っている。そんな私を、「新米なのに、こいつ」という目で見る人は、なんとかわいそうな人か、と思っていた。

 経験も、学歴も、そのときから見れば随分膨れあがった今、そういう私のバックグラウンドを知って、「ははー(頭を下げている)」と、なんでも言うことを鵜呑みにされ、ディスカッションにならないこともある。困る。良くない。私は、まだまだ発展途上だし、間違うことだってざらなのだ。履歴書上は成長したかもしれないが、私の中身、質は、関係ない。そんな定規で、人を測られたらたまったものじゃない。

 最初の質問をされて、こう答える。

 「ないよ、全然」

 本当にないもーん。英語教えたことないもーん。

 それを聞いて、質問した人は「じゃあ、語ってあげるよ」的に色々と話したりする。で、それに「でも○○じゃんか」「○○なのは、一般化できると思う?」「つまり○○ということ?」などと食らいついて、「!?」という顔をされる。そこからディスカッションは始まって、お互い、考えが偏っていたところ、実は自分のアイデアはなかなか素敵だったこと、などに気が付く。グループのメンバー同士、色々と学び、色々と考え合う。私も、少なからず、それに貢献する。

 私のバックグラウンドを全く消して、私の考えを聞いてもらおう。日本語教師というマイノリティーは、便利だ。


科学技術論文(日本語)の書き方 [つぶやき]

 日本の大学院の先輩が、ゼミの掲示板でこんなページを紹介してしていらっしゃった。

 「科学技術論文の書き方」
http://www.okada-lab.org/~okada/Ronbun.html

 まだよく読んでいないが、さっと目を通しただけでも、「え」「そうなの?」「げ」「むー」の連続だった。具体的で、でも、文体は親しみやすく(「!」とか「ね」とかが入っている)、プリント・アウトをして手元に置いておく価値大、と判断した。このblogでも、できるだけそれに沿って書いていこうか、と思う。

 まず、ひとつ。句読点は、「、」「。」は縦書きの場合だけで、横書きでは使用不可、とのこと。

 で、さっそくトライ!・・・したが、私のATOKでは「,」と「.」の全角が出ない。どうしたものやら・・・。

 以前の職場で、上司が、神懸かり的に体裁や言葉遣いに細かく、そこでずいぶん鍛えられた。全角、半角の使い分け、フォントの選び方、句読点の打ち方、漢字変換、動詞の選び方、などなど、ずいぶん叱られた。「こんな構成がなってない文章、読めない」と真っ白な原稿をつきかえされて、泣いたこともあった。そして、頑固で負けず嫌いな私は、強くなった。その職場を去ったあとも、自分で教材やテストを作るときなど、ずいぶん気にするようになった。

 で、いざ気にするようになると、結構楽しくなる。味をしめた、というべきか。体裁や言葉遣いがきちんととれているテキストは、とても読みやすいのだ。「無標」なので、文章そのものに、素直に集中することができる。人に、自分の書いたものの内容についてきちんと目を向けてもらいたければ、その周辺での騒音はゼロを目指さないといけない、ということ。

= = = = =
 ちなみに、英語圏に来て、英語で勉強する環境に身を置いて気が付いたが、こちらは、根っから体裁に厳しい。提出するものについて全て、必ずと言っていいほど、体裁についてのinstructorの要求が出される。Times New Roman, 12point, double-spaceというのが、最もよく提示される体裁。こんなこと、今まで日本の大学、大学院で言われたことは一度もない。

 どうして、そんなに体裁に厳しいのか。体裁がきちんとしてなかったら、gradingに響くぞっ、という脅しの、ネガティブな意味は薄いと思う。instructorの先生は、学生15~20人(or more)の提出したペーパーを読まないといけないのである。そして、きちんと平等に、書いたものについての成績をつけないといけないのである。内容に先生が集中できて、そしてその先生の下す評価に、「字が小さくて読みにくい」、「行間揃えろ(怒)」などの「逆ハロー効果」などが影響しないように、という、これは先生の愛ゆえの配慮だ、と思っている。

 日本の大学院の先生方に「愛」がない、というつもりはないが、そんなことを常に学生に要求する体質を、どこかの研究室なり、講座が持つとしたら、それは素晴らしいことだと思う。「えー、そんなの大変じゃん。あたし、性格的に無理」と言う学生もいるかもしれない。しかし、最終的に、学生たちは論文を書かないといけないわけで、追い込みのときに始めて体裁について真剣に気にするようになって四苦八苦するよりも、日頃から気を配るように指導されていたほうが、苦しみも減るというもの。やはり、教育者の愛、だ。

 米国の大学では、学部生の必修科目として"English writing"がある。わざわざ、授業を開いて教えてもらえるなんて、素晴らしいと思う。どうして日本にはないのだろう。なんだか、色んなポリシーがあって、基準というものがなくて、で、教えられる人もいないから、なーなーになっているような空気も感じる。学生としては、教えて欲しい。もっと言えば、ディスカッション技術や、口頭発表技術も、教えて欲しい。

 少し前、Linguistic departmentのセミナーで、英語論文の要旨の書き方についての勉強会が開かれた。私が今履修している、Psycholinguisticsのクラスの先生が話してくださった。学生たちの色んな細かい質問に丁寧に答えてくださった。とっても具体的でためになる勉強会だった。日本でも、日本語の論文でも、こういう場をもっと設けてほしい。
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 私がここで書いたようなことを、今まで、考えたことがないか、苦手だからといって見て見ぬふりをされていた方。具体的で個別的な技術はともかくとして、とにかく、「体裁の整っている文章はかっこいい」という価値観を持つことから始められるのはどうだろうか、と提案したい。だって、本当に気持ちがいいから。

(今日、とある性格診断テストで「自分のことを棚にあげて、他人を攻撃する傾向がある」という結果が出た。このテスト、なかなか当たるようだ)


研究と現場のつながり [つぶやき]

 私の知る限り、日本国内の多くの大学で、その大学付属の日本語コース(留学生別科、など)と、その大学内の日本語教育コースが、仲が良くない、もしくはつながりがない、ということがよくある。これは、非常に残念なことである。理由を聞いてみると、「以前実習中に誰かがへまをした」とか、「○先生と△先生の間に確執があるらしい」とか、全く下らないものであることが多い。腹立たしい。身勝手もいい加減にしてほしい。何よりも大切なのは、学習環境をすこしでも向上させることではないのか。

 私は、研究がどうしてもしたかったので、仕事をやめて大学院に入った。仕事をしながら(つまり、日本語を教えながら)でも、研究はできた。例えば、指導法を模索したり、学習者の様子を観察したり、テスト法を開発したり、教えながらでもできる研究はいくらでもある。むしろ、研究のアイデアは、教室から来ることが多いと思う。

 私の場合は、科学的根拠を追求する研究がしたかったので、研究方法(実験方法、統計、等々)の基礎から勉強する必要があると思い、そしてそれは到底仕事の片手間に勉強できることではないので、大学院への道を選んだ。仕事を諦めて研究に自分の時間をささげることにした。だから、大学院では、「働いていたときにはできなかった」ようなことがしたいと思っている。

 実験を行うような研究の場合、そのデータに影響する余剰要因を極力省かないといけないので、教室環境とは、全く異なる状況で研究が進められることになる。教師と学習者の信頼関係とか、学習者のやる気とか、そういうのは実験室に持ち込みたくない。

 だからといって、私が日本語教育、日本語の教室に興味がなくなったわけでは、全くない。また、私が教室で実験室のようなことをやろうとしている、ということでもない。教室には教室に必要な空気があり、実験室には実験室に必要な空気がある。

 でも、やはり、研究のきっかけは、言語教育の研究に限らず、日常的で、現実的で、人間的なところから来るものである。「うちの犬は、ベルを鳴らすと、なんだか嬉しそうにする。何なんだろう、この犬。」から、パブロフの実験室での、あの、犬を固定させた、ちょっと現在では実現が難しそうな実験が始まるのである。

 実験に限らず、研究は、セオリーとして「何かに貢献しなければいけない」というのがある。個人の興味では、研究は成り立たないのだ。研究から何が得られるか、どこにつながるか、研究者は考えなければならない。それは、特に、人間が関わる研究なら、なおさら慎重にならなければならないことだろう。

 長くなったが、研究と現場はつながっている必要がある。お互いにフィードバックを与えあえる関係にある必要がある。現場の教師は、目の前の学習者にできるだけ力を捧げたるために奔走し、研究室の研究者は、できるだけしっかりした結果を残そうとデータと日夜向かい合う。この両方をひとりの人間が、きちんとやり遂げることは、不可能だと思う。共倒れになる可能性は、非常に高い。だからこそ、それぞれのスペシャリストが、協力しあえる体制をつくることが必要なのだ。

 私が今在籍している米国の某大学では、付属の英語教育機関とESL(SLS)の研究機関が、非常に有機的につながっている。現場の教室からは、新たな研究(調査)の必要が叫ばれ、詳細な情報が提供される。ESL(SLS)の学生も、クラス・プロジェクトとして、見学をしたり、ワーク・ショップを設立したり、テストを開発したりすることが奨励されている。また、それらが良い結果を生めば、現場に正式に持ち込まれることにもなる。現場も、研究も、どちらも正直で、真摯的で、協力的である。それは、どちらもが、「教育の質を高めたい」という、同じ道を歩いているからである。

 私も、ここにいる間に、積極的に現場と関わっていこうと思う。ありがたいことに、日本語教育も行われているのだ。学生の数も、かなり多いし、レベルも様々である。ここでできて、日本ではできないことのひとつである。皮肉なことに。


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