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6+1 Writing Traits 日本語版ポスター 教室掲示用 [Teaching]

 ものすごく久しぶりの投稿。

 今日の仕事のひとつ。かねてから、ずっと作ろう作ろう、作らねば作らねば、と思っていた、6+1 Writing Traitsの日本語版教室掲示用ポスターを、ついに作った。よし、今だ!と何かが頭に降りて来て、一気に仕上げた。

 こういうものは、「一気に」に限る。というのも、レイアウトやフォント、言葉遣いなど、7枚のポスターで統一しなければいけないことは、いろいろ、多岐にわたるから。

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 北米で作られた、作文に対する指導、評価、指針のひとつ。イギリス式の、わたしの学校では、知られていないし、もちろん、使われてもいない。日本のNational Curriculum 学習指導要領とも、ずいぶんことなる。それでも、わたしは、自分なりに勉強して、読み砕いて、噛み砕いて、実際に教室にも持って行って、生徒たちと共有して、そして今、これを使い続けて行こう、と思っている。

 日本語のがあってもいいと思う。とかく文法や漢字表記に注目が行きがちな作文指導/評価。それは、日本語教育も国語教育も同じ。わたしは、それに、多いに異を唱える。それら「文法」「漢字表記」は、7つあるtraitsの中の、たった一つにすぎない。もっと、もっと、子どもたちの能力の中で、すくいとってあげるところがあるはず。花を開くのを手伝ってあげられるところがあるはず。
 
 どうでしょうか?

教務主任の資格 [つぶやき]

 求人サイトを何気なく眺めていると、「主任」ポストの募集が。その横には、「日本語教育振興協会の定める主任教員の資格を有するもの」のようなことが書かれている。

 そのポストに応募する気はないが、興味があったので、調べてみることに。日本語教育振興協会のサイトに行ってみた。

(以下抜粋)
(主任教員の資格) 10 主任教員は、日本語教育に関する教育課程の編成など教育的知識・能力を備えた者とし、常勤 の日本語教員又は日本語研究者として3年以上の経験を有する者であるものとする。 ② 主任教員は、専任教員のうちから選任するものとする。

ひっかかることその壱
ー「3年」でいいのか?少なすぎないか?

ひっかかることその弐
ー「研究者」の経験でなっていいのか?

 かねがね思っていることにつながる。「日本語教育」と呼ばれる世界は、「教育」より「日本語」が元気だ。日本語に長けていることと、教育に通じていることと、どちらが重要であろうか。どちらも。でも、どちらのほうが?しかも、教務主任なら?

 いつかは、日本に帰りたいだろうか、と自分の中でディベートをすることが、ふと、ある。今の自分の経歴なら、どうやら、「教務主任」になれる様子。実際、過去に応募したところで、「主任に興味はないか?」と聞かれたことも。

 わたしは、教務主任になれるのだろうか?勤まるのだろうか?

 自分のことは、自分が一番分かっている。わたしは、日本語能力試験に、しばらく関わっていない。日本留学試験が本格的にスタートしたころには、もう、日本国外にいて、それに本格的に関わったことは、ほとんどない。ガイドラインも知らない。それらは、日本国内の日本語教育機関で働くには、ずいぶんのマイナス要素になるだろう、少なくとも、まず自分で勉強しないといけないところだろう、と自分では思う。

 それに、わたしはしばらく初等・中等教育に関わっているので、高等教育、もしくは、高等教育予備教育機関に関わるのは、ちょっとしたブランクがある。経験はある。知識もある。でも、鈍っているのは、確か。

ーーー
 と、ちょっとだけ考えたけど、そういえば、自分には、日本の日本語学校と呼ばれるところで教える気持ちは、当分、起きそうにない。なんといっても、初等・中等教育が、おもしろすぎるのだ。

 

AHA! 効果 [Cognitive Psychology]

 だいぶん前に書いて、忘れかけていたこと。「腑に落ちる」の記憶強度について。

 あのときは、とても興味があって、興奮気味だった。自分だ大学院などの研究ができる機関に所属していたら、すぐに関連文献にあたって、調べていたことだろう。でも、仕事をしながら、しかも、K-12という、研究とは遠いところに身をおくと、そうはいかない。しかも、体はバンコクだし。

 ランチを食べながら、同僚先生たちとうやうやと話す。AlohaとEricは、いつものメンバー。AlohaはPhDを、EricはMasterを、オンラインでとっている。2人ともプロの写真家でもある。テクノロジーと、イメージと、アイデアと、それらがどう、子どもたちの教育につながるか。いつもわたしたちの間にあるテーマ。いつも、いつも、興味深いテーマがある。

 先日、「AHA!効果」について話していた。これはわたしがずいぶん前に興味津々だった、あのことに関係しているんだ。まさしく、自分に"AHA"が起こった。

 言語教師、言語教育の世界にいると、すぐに、言語的なアプローチをとってしまいがち。教育は、普遍なテーマがあって、いくらターゲットが言語だからといって、それを無視することはできない。そこから多くを学ばなければいけない。

 "AHA"の方向から、「腑に落ちる」を考えてみたい。やはり、研究文献にあたりたい。研究方法、理論を噛み砕くこと、批判的にも読み砕くこと、自分の中のものと照らし合わせること、全部大学院で学んだ。それが自分の中にあること。感謝したい。

 勉強はおもしろい。

Where does your true intelligence lie? [Pedagogy]

 先日、現職中学校教師のためのワークショップがありました。そこで、担当講師の方が、今話題のMultiple Intelligenceを簡単にチェックできるシートを配ってくれました。興味のあるかた、以下の質問に答えてみてください。

手元にあるのは、英語バージョン。そのままタイプします。出典は何も書かれていませんね。これが配られたワークショップと、その講師の方の情報を、下に書きます。

EARCOS Weekend Workshop
"Teaching the Best practice Way: Classrooms of Success for All"
presenter: Nancy M. Doda

= = = = =
This survey will help you identify your areas of strongest intelligence. Read each statement, if it expresses some characteristics of yours and sounds true for the most part, jot down a "T". If it does not mark an "F". If the statement is sometimes true and sometimes false, leave it blank.

1 I would rather draw a map than give someone verbal directions.
2 If I am angry or happy, I usually know exactly why.
3 I can play (or used to play) a musical instrument.
4 I can associate music with moods.
5 I can add or multiply quickly in my head.
6 I can help a friend sort out strong feelings because i successfully dealt with similar feelings.
7 I like to work with calculators and computers.
8 I enjoy categorizing things by common traits.
9 I pick up new dance steps fast.
10 It is easy for me to say what I think in an argument or debate.
11 I enjoy a good lecture, speech or sermon.
12 I always know north from south no matter where I am.
13 I like to gather together groups of people for parties or special events.
14 Ecological issues are important to me.
15 Life seems empty without music.
16 I always understand the drawings that come with new gadgets or appliances.
17 I like to work puzzles and play games.
18 Learning to ride a bike (or skate) was easy.
19 I am irritated when I hear an argument that sounds illogical.
20 I can convince other people to follow my plans.
21 Hiking and camping are enjoyable activities for me.
22 My sense of balance and coordination is good.
23 I often see patterns and relationships between numbers faster and easier than others.
24 I enjoy building models (or sculpting).
25 I enjoy working on a garden.
26 I am good at dinging the fine points of word meanings.
27 I can look at an object one way and see it turned sideways or backwards just an easily.
28 I often connect a piece of music with some event in my life.
29 I like to work with numbers and figures.
30 Animals are important in my life.
31 I like to sit quietly and reflect on my inner feelings.
32 Just looking at shapes of buildings and structures is pleasurable to me.
33 I like to hum, whistle, and sing in the shower or when I am alone.
34 I am good at athletics.
35 I enjoy writing detailed letters to my friends.
36 I am usually aware of the expressions on other people's faces.
37 I am sensitive to the expressions on other people's faces.
38 I stay "in touch" with my moods. I have no trouble identifying them.
39 I am sensitive to the moods of others.
40 I have a good sense of what others think of me.

= = = = =
 どうでしたか?Scoring Sheetは、次回に。でも、なんとなく、どの質問がどれか、というのは、分かりますね。

RubiStarでつくるRubric [Teaching]

 RubiStarというwebsiteがある。大変便利で、頻繁に活用している。

 今では、そんなことも書けるけれども、恥ずかしながら、数年前まで、わたしは"Rubric"という概念はおろか、言葉さえ知らなかった。わたしの生息していたところでは、それが話に出ることはなかった。今では、どうなんだろう?

 Rubricは、大変便利で、どういうところが便利なのかというと:

1 透明性(transparency)がある
 生徒にも一目で分かる、評価基準。自分の、なにがよくて、なにが足りなかったのか、一目瞭然。これは、採点するほう(教師)にも重要なこと。採点しているうちに、基準がぶれてくるのを防いでくれる。

2 単純
 Rubricをつくること自体は、ひとつの仕事になってしまうけれども、いざ採点するときになると、大変、楽。ちゃっちゃとチェックしていって、合計すればいいだけ。複数名の教員で採点をして、その平均をとる、といったことも、簡単にできる。生徒でも(たとえおちびでも)簡単に自己採点ができる。

3 客観的
 2で「自己採点ができる」と書いたが、その自己採点のときに重要なのは、どれほど自分の作業を客観的にみられるか、だ。Rubricなら、各セルに書かれている説明を読むことで、生徒たちは、作業の途中でも、自分がきちんと基準に沿っているか、要求を満たしているか、について客観的にチェックできる。そして、方向修正、editingなどを行うことができる。
 さらに言うと、プロジェクト、作業、課題の導入・紹介の段階で提示すれば、教師が生徒たちになにを求めているのか、はっきりと共有することができる。彼らは、ゴールに向かって、計画的に進むことができる。

4 視覚的
 Rubricを眺めることで、「なーんとなく右(よい得点側)に寄ってるな」「ひとつだけ飛び抜けて左寄りだ」などに気がつくことができる。例えば、クラス全体のRubricをぱらぱら、と眺めて、あるひとつの項目について、多くの生徒がどちらかに偏っている傾向があったとする。それは、自分の指導へのフィードバックとなる。説明が足りなかったのではないか?事前のタスクが不十分だったのではないか?または、このレベルには、この要求は簡単すぎたのではないか?など、振り返る材料になる。

 そんなこんなで、今もRubiStarをつかったRubric作りに励んでいる。前の投稿で書いた、Portfolioで、必要なのだ。

 学期の途中で、わたしは、生徒ひとりひとりと、conference、つまり面談のようなものをするつもりだ。そのときに、一緒にRubricを眺めて、「ねえ、どう思う?」などと、話をするのだ。

 RubiStarについてはもちろん、Rubricそのもののことでも、アイデア、コメントあったら、お願いします。

Portfolio Assessment ポートフォリオ評価 [Teaching]

 評価の仕方には、いろいろあって、その中からどれを選ぶか、どのように選ぶか、は教師の手腕にかかっている。- - - と書くと、「こりゃ大変だぞ」と思ってしまうが、実は、「教師個人が選べる」というのは、大変ありがたい状況だと言える。学校やデパートメントで設定され、それに従わなければならない、もしくは、ティームティーチングをしているので、自分で決める訳にはいかない、などといった状況が普通だからだ。

 「だれかが決めてくれたほうが楽」なのは、その通り。しかし、自分の授業は自分でデザインしたい。自分の生徒は自分と向き合ってほしい。

 向き合うの?「評価」なのに???

 という疑問を持たれたかた。「評価」が、何かのランクをつけること、合否を決めることなど、「ある一定の期間の学習の成果をある時期に下し、それを伝える」ものであれば、その疑問はその通り。しかし、別の「評価」もある。教師から生徒への、フィードバックとしての、メッセージとしての「評価」も存在する。それは、「ある一定の期間の学習」に対し、「ある一定の期間を費やし」、さらに、「その後の将来も見据えている」もの。その「期間」に、何が起こっているか、を見るもの。その「何」に対してメッセージを送り、「その後どうなったか」も、チェックするもの。生徒に向き合っているのだ。

 生徒一人一人と向き合わないといけない。生徒一人一人、それぞれの対処をしないといけない。これは、多大な労力を費やすもの。しかし、「評価」を「教育」の一部に組み込んでしまうためには、労力は費やして当然。

 わたしも、「楽」はしたい。「誰かが全部決めてくれて、それについていきさえすれば学期が過ぎていく、そんな毎日がほしい」と、これまでどれほど願ったか分からない。しかし、もうわたしは、自分の現在教えている環境を見て、単に結果を下すだけの評価は、彼らの学習につながらないと気がついてしまった。そして、わたしは、わたしの自由にできる環境にある。こうなったら、もう、やるしかないではないか。


教科と総合に活かすポートフォリオ評価法―新たな評価基準の創出に向けて

教科と総合に活かすポートフォリオ評価法―新たな評価基準の創出に向けて

  • 作者: 西岡 加名恵
  • 出版社/メーカー: 図書文化社
  • 発売日: 2003/06
  • メディア: 単行本



 しばしの日本帰国で見つけたこの本。自分の現在の状況を考えれば、英語で書かれた本のほうがずいぶん有用だが(他の先生とシェアしやすいので)、しかし、自分の国であり、自分の教える教科にも関わる「日本」という国で、どのように考えられているのかを知るためにも、日本語のものをひとつ、きちんと読み、咀嚼しようと思っている。

 Electronic Portfolioというものを、実は、うちのデパートメントでは行っている。しかし、現在のところ、それは全体の評価の20%に過ぎないし、なにより、生徒のつくったポートフォリオをみて、その完成品を評価するスタイルに設定されている。わたしは、かねがね、これが疑問だった。生徒にも「どうして作らないといけないのか」とよく不満を含めて聞かれた。たしかに、彼らが、「これは作っていて楽しい」「これを作ることで自分は学んでいる」と、作業の途中で気づく機会は、今までの状況では与えられていないのだ。完成品に対する評価を見せられ、「あーいまひとつだったんだな」と気づいて、それでおしまい。それじゃ、いけない。それじゃ、教育になっていない。

 この夏、ペンシルベニア州立大学で開かれた、言語教師のためのワークショップに参加してきた。そこで、ポートフォリイオ評価法についてのコースを選択し、多くを学んだ。わたしが、今、ここに述べてきたような心境にあるのは、これによるところが大きい。

 さて、デパートメントで、Electronic Portfolioを共に授業で行っている、他の言語の先生たちを説得できるか。そこが課題かな。そのためにも、しっかり読もう。

lab or love? [Psycholinguistics]

 とっても久しぶりの投稿です。最近身近にあった、単に話題としても面白く、さらに、ちょっと心理言語学的要素も絡んでいること。

= = = = =
 先日、6年生は、Bangkok郊外の科学館へ1日field tripへ出かけた。Middle Schoolの、Scienceの先生達が一緒に行くこのfield trip。わたしはもちろん行かないが、残っているかわりに、「Sub(代講)」が入る。で、subをするのは、もちろん、そのscienceの先生のクラス。だから、科目はscience。

 Subは、なんだかんだと、結構入る。この前も、Bandのsubが入り、6年生に、楽譜の読み方を教えてきた(これは教えられたし面白かった!)。

 Mattの、7年生Discovery scienceが、補講のクラス。Mattは、前日に、「適当にしゃべっといてよ。よろぴくね」という感じで、Lesson planを見せてくれた。どれどれ。

 Topic: Dos and Donts in Science Lab

 化学実験室を使うにあたって、しちゃいけないことを理解し、そして、じゃ、どうしたらいいんだろう、と話し合う、というクラス。基本的には、生徒達は、Mattの用意したワークシート類を読んだり、丸を書き込んだり、色分けしたり、など、要は個人作業をすればいい、という流れ。

 その冒頭。最初のところ。Lesson planにこんな1行が。

 Please feel free to share your story/stories of accident in lab if you have.(実験室でのアクシデントについてなんかネタでもあったら、しゃべってやってね)

 ・・・ないっ!

 でも、せっかくMattが前日に見せてくれたわけだし、それに、生徒とそんなこと話すのも面白そうだし、わたしは、ネタ探しの旅に出る。

 Middle Schoolですれ違う先生たちをつかまえて、「ねーねー、ちょっといい?」と聞き出すわけだが、その聞き出し方によって、反応が面白く違う。

case A) 「明日、Mattのscienceのクラスのsubするのに小ネタがいるんだけどね」と言ったうえで、"Do you have this kind of story?"と、lesson planの1行を見せる。

case B) 「明日、Mattのscienceのクラスのsubするのに小ネタがいるんだけどね」と言ったうえで、"Do you have any stories of accident in lab?"と、口頭で聞く。

case C) 「いろんな先生に今ちょっと聞いて回ってるんだけど」とだけ言い、"Do you have this kind of story?"と、lesson planの1行を見せる。

case D) 「いろんな先生に今ちょっと聞いて回ってるんだけど」とだけ言い、"Do you have any stories of accident in science lab?"と、口頭で聞く。

case E) 「いろんな先生に今ちょっと聞いて回ってるんだけど」とだけ言い、"Do you have any stories of accident in lab?"と、口頭で聞く。

 さて、どうなるか・・・

 <ヒント、その1行の文章、および、わたしの発話部分を、是非、音声化してみてください。>

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直説法とか間接法とか [Teaching]

 直説法がいいとか、間接法がいいとか、そういった議論があるが、はた、と思う。この議論って、「言語学習の場面で」学習言語を使うかどうか、っていうことなのか?それとも、普段の、いろんな簡単なやりとりから、学習言語を使って、どっぷり、たっぷり、シャワーを浴びてもらうことなのか?

 わたしの今の職場では、わたしは、基本的に、媒介語である英語を活用している。やはり、大変便利。というか、中学生だと、媒介語ないと、絶対無理だな。叱る、ほめる、活動を指示する、など、やっぱり、英語が使えると大変便利。

 しかし、わたしは、日本語母語話者なわけで、生徒たちにも、できるだけ、日本語に触れてもらいたいわけで、と思う。しかし、変に日本語を英語に挟むのは、とっても気持ちが悪いものだ。

 具体的には、いろんな話をするなかで、返事だけは、「はい」と「いいえ」を使うとか。さっきまで、英語でぺらぺらしゃべっていた癖に、会話練習になると、突然日本語になるとか。大変、変。

 自分でもそう感じるので、わたしは、英語を話しているときは、英語ばっかり使っている(ような気がする)。

 先日、"Japanese only day"をもうけてみた。"Only"だから、ほんっとうに、日本語しか話さない、という日。

 結論から言うと、なかなかよかった。子どもたちは、協力して、わたしの日本語を理解しようとしていた。

・・・続きは今度書きます。


Counting 数のお勉強に役立つ? [Teaching]

 数に関係のある勉強では、このHPにお世話になっている。これは、どの言語の学習にも便利なはず。実際、うちの学校の他言語の先生に教えて、喜ばれた。

Web Metronome - a free online metronome

 まず、アラビア数字が、大きく表示されるところが、よい。そして、速さが変えられること、表示される数字の幅が変えられるのも、大変に便利。

 例えば、1から10までの練習。一番遅いペースにして、全体練習。発音などの確認。その後、生徒に使い方を教えて(彼らはすぐに自分で見つけるけど)、それぞれコンピュータの前で練習。速さを変えながら、少しずつ、自分のペースでチャレンジしていくことができる。一番下の、タイマーを使えば、何秒以内に言えたか、などの競争にも使える。

 他には、「〜時」とか「〜月」などの、接尾辞をつけるバージョンでも使える。数字を「12」に合わせればいいから。

 応用編としては、漢字の学習でも。見て、ぱっと書けるかどうか、といったように。数字が最大32までしかないのが、残念だけれども。

 子どもは、速さを競うのが、大好き。毎日、教室に入って来るなり、クラスメートと、「いち、に、さん・・・」と競争している。

 日誌に、今日はどの速さまでできたか、などをつけて、自分の成長を見て喜んだりもできる。「じゃ、明日は、130 Beats をチェックするよー」のように、宿題も出しやすい。

 そのうち、GarageBandかAudacityを使って、ひとりひとり、録音させる予定。そういうのがあると、彼らは、俄然、やる気になる。

 そもそも、メトロノーム自体、大変便利だ。促音や長音の練習で使えるのはもちろんのこと、すらすら言えるまでの口頭練習でも、使える。何かの作業のとき、生徒を意図的に「焦らせる」ためのBGMとしても、活躍する。これまでも、アナログのものを使ったことは何度かあったが、今回、onlineで見つけて、重宝している、というわけ。

 ま、これというのも、教室に、コンピュータとプロジェクタ、生徒用のコンピュータが数台ある、という、学校の設備があってこそ、だが。

 テクノロジーは、どんどん使わないと、ね。

 授業用にも、自分自身や生徒(学生、受講者)の自習用にも、身近な方に紹介してみてください。


Crisis of Identity [Teaching]

 ある生徒の父兄が、わたしを訪ねてオフィスにやってきた。その子のクラスは、レベル差があり、マネージメントにいつも頭を悩ませ、また、子どもとの関係作りも、難航しているクラス。「あー、ついに父兄の苦情に発展したか」、と、身構え、しかし、腰は引け気味、気持ちはどーんより。

 お母さんが部屋に入ってきた。にこにこ。そして、背中に子ども、Prlちゃんがくすくす言いながら隠れている。ん???苦情じゃない?

 話をすると、Prlちゃんのお母さんは、タイの公立学校で、現役の先生。やってきたてで、しどろもどろ、失敗を繰り返したりしている私の話を聞いて、励ましたくてわざわざ来てくださったらしい。あー、涙出る。

 中学生は、まだ子どもでも、わがままがどんどん出てくる。反抗的にもなる。悪口やいたずら、つくウソの質も悪くなってくる。それには、がつんと、強気に出ないといけないこと。なんだかんだ言っても、先生には勝てないんだ、としっかり見せないといけないこと。

 教師の「先輩」として、貴重な言葉をいただく。心に響く。

 いろいろ話を聞くなかで、一番印象に残ったこと。

 「欧米に染まって、染まりすぎて、子どもたちは、タイであることを忘れていきます。タイやアジアの、美しく誇るべき、謙虚さ、従順さ、人を尊敬する心、礼儀を重んじる心を、インターナショナルスクールに入った子どもは、簡単に失ってしまいます。わたしは、この子をこの学校に入れましたが、タイの心を忘れるな、と、何度も言い聞かせています。実際、この学校の子どもたちを見て、正直、失望することも多いです。日本から来た日本人であるmamemama先生は、どう思いますか?日本に、タイと共通する、美しいものがあるとしたら、わたしは、先生に、学校で、生徒に教えて欲しいのです。」

 これを聞いて、わたしは確信した。わたしは、ここにいて、欧米一色のインターナショナルスクールにいて、でも、アジアを貫いていいんだ。日本を出していいんだ。「わたしは、この方針だ」と、声を大にして、堂々と言っていいんだ。

 それでも、わたしのidentityは、大変に、揺らぐ。それは、とても、辛いこと。

 きっと、子どもたちこそ、この、"crisis of identity"の波を受けている。

 この辛い波を乗り越える、もっとも簡単な方法。それは、どれにするかをとにかく決めてしまい、あとは、それにどっぷり浸かること。自分はどっちなんだろう、どっちになりたいんだろう、それぞれのいいところ、悪いところってなんだろう、の、悩む課程は、スルー。

 わたしは、それは、よくないsolutionだと思っている。大人だし、いろんな文化を体験してきたから、分かる。でも、子どもは分からない。

 先生は、欧米人。学校は、"English only"を叫ぶ。親も、英語を話せることはいいことだ、と言う。英語が話せることは、誇りだし、すごいことだ、と言う。翻って、英語が話せる人は、すごい、偉い、ということにも、なる。そんな課程で育ち、子どもは、その意識を、どんどん吸収していく。子どもは、自分で判断が、まだうまくできない。

 だから、簡単な方向に、進んでいく。欧米に染まること。それが、一番簡単なこと。タイである親も、親戚も、気がついたら、もう止められなくなっている。

 わたしは、どうしたらいいんだろう。と、それでもまだ、思う。

 それは、わたし自身、まだ、"crisis of identity"の波の大きなチューブに、飲み込まれているところだから。抜け出せていないから。

 これは、辛い。辛いです。


English only, please! [Pedagogy]

 我が校の、大きな大きなポリシー。"English only!" わたしは、これに対して、totally negativeでもないけど、かといって、totally positiveでもない。

 明日は新しい学年の初日。それに向けて、先生たちは準備に忙しい。学年ごとでチームを組んだりして、生徒の風紀、学校生活はもちろんだけど、それより、なにより、この、"English only, please"をどうやって進めていけるか、というのが課題だ。

 我が校は、フロアーごとに学年が分かれている。わたしがJapaneseのクラスを持っているのは、4階の、6年生のフロアー。6年生の先生と話す。彼らはミーティングを持った結果、対策を練り出すことができ、そして、わたしにも協力してもらえるといいんだけど、と言う。

 こんなことをするらしい。

*そのクラス、もしくはクラスの前後、近所で英語以外を話している生徒をみつけたら、見つけた生徒は、各教室のドアに張ってある紙に、名前とクラスを書く

*担任の先生は、時間があれば、廊下を歩く

*自分の担任の生徒を紙に見つけたら、ちょっと時間をとってお話する

 これをやっているうちに、タイ語を話す子が減るんじゃないか、というのが彼らの考え。わたしは、生徒同士がやる、というところに、「こわさ」を感じて、結局お断りした。

 英語を話す、ということは、タイ語が母語の子どもにとって、extraの労力を必要とすること。だから、「何か」がいる。何か、後押しするもの。引っ張るもの。何か。

 人は、怒られて何かをするようになる生き物ではない。やりたい、やるといいことがある、と心が思うようになって、そして、何かをするんだ。

 「英語を話してくれて、ありがとう。わたしの言葉を、あなたは労力を費やして話してくれて、ありがとう。あなたと話すことができて、嬉しいわ」

 わたしに、そう言った人がいた。彼女の言葉は、これまでわたしが受けたどんな言葉よりも、「もっと英語を話したい」とわたしに思わせた。

 母語話者は、えばりがち。えらそうに、なりがち。ちょっと、待って。「ありがとう」「嬉しい」という気持ちを、前面に出していけないものだろうか。

 もっと詳しく書きたいけど、授業の準備があるので、やめ。

 わたしは、初日のクラスで、「コミュニケーション・ゲーム」をする。実際のコミュニケーションのなかで、言語は、どれほどの力を持っているか。言語があるとないとでは、どれほど違ってくるか、というのを感じてもらいたいゲーム。

 結論はね。「言語なんて、ほんの一部じゃん」ということ。それに気がついてほしい。言葉が分かたなくたって、ジェスチャー、目の表情、相手との距離、いろんなことで、わたしたちは相手のメッセージを読み取ることができる。しかし、それは、ただし、「メッセージを読み取りたい」「メッセージを伝えたい」と、双方が思っているときだけ。

 わたしの、直説法をまれに用いる、言語のシャワーを勢いよくざざざーっと浴びせるクラスに、前向きに取り組んで欲しい。「先生、何言ってるんだろう?」という目を、耳を向けてほしい。コミュニケーションは、そこから。言語なんて、あとから。


手直ししまーす [全体]

 「なんだか記事が読めない」との友だちのコメント。ちょっと、サイドバーあたり、シンプルにしました。

 そして、気がついた。少し前、MAPLLという学会でポスター発表をして、そこでのもろもろについて、自分なりに、学術的にも、非学術的にも振り返って、ここにつらつら書いたのだけれど・・・どこかに消えている。

 うぅぅぅぅ・・・。覚えてないよー。そういえば、アップしたとき、なーんか、動作変だったかな。

 他に、少し前の記事、書きかけのまま、なんだか切れています。なぜに?これは、内容を覚えているので、また、書こう。

 大学院生で、論文をもしゃもしゃ読みあさっていたときは、論文のどこかから見つけたアイデアや、実験方法、日々のディスカッションでひらめいたこと、などなど、絶対忘れたくなくて、がむしゃらになってて、それで、こまめにupしてた。

 それが、どうして、仕事を始めると、こうも手抜きになるのかなー?


『脳科学を活かした授業をつくる』本田恵子著 [Teaching]

 日本に一時帰国していたときに買った本。Bangkokに戻ってから、今日初めて、コーヒーショップで開いた。

 大変、大変、面白い。これは、アンダーラインをひいたり、メモをとったり、付箋紙を貼ったりしながら、きちんと読みたい!と思い、のんびりするはずだったコーヒーショップを、そそくさと後にした。

 わたしの研究・興味は、理屈っぽくて、実験室的で、現場と離れているように思われがち。しかし、わたしの中では、はっきりと、現場と結びついていた。それを、本にして、説明してくださっている。あー、嬉しい。

 この本のいい(わたしが嬉しい)ところ。

1 しっかりとした脳科学に基づいている
 これまでの研究成果から、最新のものまで、基礎的な研究がベースになっている。専門的なところから、きちんと考えられていることがわかり、信頼できる。この手の専門書は、とかく、教育現場だけ、とか、研究者だけ、とか、そういう限られた世界で活躍する著者が、限られた世界の読み手に訴えるものが多い。これは、そうではない。研究と、教育の現場が、両方、しっかりと見据えられている。
 教師、教師した色の本は、どうも主観や著者の経験が前に出て、「あー、そうですか」「あなたはそうかもしれませんけど」と、(失礼だが)思うものだ。これは、違う。実験や研究に基づいて、客観的に述べられている。

2 教育全般である
 「日本語教育」のように、一部のものを対象としいていない。「学ぶ」ということ、そのものをターゲットとしている。いかなる分野の教育も、原点に戻って、学習者、生徒、学生を、学ぶ生身の人間として考え直すことができるのではないだろうか。

3 知識と実践両方について述べられている
 最初が、学問的な、「理論編」。後半が、現場に近づいた、「実践編」。「実践編」では、具体的な教科(社会科、など)が挙げられ、指導単元(南北戦争、など)、生徒の様子(自分のことになるとおしゃべりになる、など)も挙げられている。読んでいて、イメージしやすい。
 自分の気にしている教科や単元が、それと異なっていても、「理論編」で、基礎的な背景は分かっているので、自身で、自分の場面に置き換えることができる。構成がうまくできている。

= = = = =
 さて、家に帰ったので、コーヒーを入れて、読み直さないと。

 読まれた方、いらっしゃったら、コメントを聞かせてください。


学ぶことの動機 [Pedagogy]

 一時帰国中に、久しぶりに友だちに会った。彼女とは、大学院生時代に、同じポットの湯からカップラーメンをすすった仲。彼女も今、「日本語教師」と呼ばれる仕事に就いている。そして、彼女自身タイで活躍していた時代もあり、仕事のことも、タイのことも、話す話題は山ほど。そんな中から、「教育」について、考えさせられたこと。

= = = = =
 「学習」において、その動機は重要だ。「動機づけ」という言葉もある。しかし、ふと思うと、教師側は、その動機をうまく組み込み、本当に「学習」につなげることができているのかどうか、というと、難しいところだ。

 動機を道具、もしくは口実に、学習者に無理な学習を強いている。このようなことは、よく起こっているのではないだろうか。私自身の経験を振り返っても、である。「○○試験に合格しないといけないでしょ」「○○大学に入らないといけないでしょ」「日本語が上達しないと生活で○○ができないでしょ」と言いながら、様々なことを、詰め込む。

 実際、「詰め込む」ことが必要な場合もある。短期的に集中して学習し、相当なレベルの大学に入ろうとする日本語学習者はいる。わたしが問題にしたいのは、そこではなく、それを口実に使っているというところ。

 授業の組み立て、学習項目の提出のしかた、道具の使い方、時間と量の関係、雰囲気づくり、もろもろについて、本当に、学習者が吸収していけるように、吸収したいと思えるように、考えているか。学習者、というよりも、「人間」として、その基本的な学習能力を考えているか、ということ。

 人間は、学ぶ生き物である。「どうして?」と思えば、知りたくなる。「もうちょっと頑張ればできる」と思えば、もうちょっと頑張ることができる。できて、気持ちがよければ、もっとできるようになりたい、と思う。学習が役に立つと知れば、学習を続ける。学ぶことの基本。

 それでも、そんな「基本」を教師は忘れてしまう。学習者が成人であれば、なおさら。

 学習者は、年齢が上がり、自己コントロール力もある程度上がれば、無茶な授業にもついてくる。「自習」の能力もある。成人であれば、社会性も持っているわけだから、自分が居心地が悪いと思っていても、それを教室で口にすることはそうそうない。

 そんなところに、「○○ができるようにならないと、○○になれないでしょ」などと、動機を刷り込まれると、もう、これは洗脳に近づいてくる。授業自体が、自分たちの学習の喜びを刺激することのない、質の低いものであっても、その、外から刷り込まれた動機によって、学習者の、自己コントロール能力、自習力は、どんどん発揮されていく。

 教師が、「基本」を無視して授業を進めていても、なかなか気づかないわけである。

 「タイの子どもって、特に具体的な学習目的もないし、それで大変なんじゃない?」と、カレーをつつきながらの友人のコメント。

 すぐに答えられなかったけど、それでも、「学習目的がないから大変」ということには、すぐにノーと言えた。そうじゃない。子どもたちは、はっきりとした目的を持っている。彼らは、「学習することは息をすること」のようであり、「学習することは楽しい」のだ。

 わたしは、これまで、学習者の学習目的を見つけ(○級に合格しないといけない)、それを彼らに口頭で押しつけ(○級に合格するためには、これだけテストを受けないといけない)、そうすることで、自分の無茶な授業(テストで良い点を取るための学習)も推し進めることができていた。これまでの学習者が、成人だったからだ。

 子どもはそうはいかない。「いやだ」「先生、下手」「なんでそんなことしないといけないの?」素直な言葉がどんどん口から出てくる。その度に、わたしの胸にぐさぐさと刺さるのだ。

 だから、わたしは、今の学校に来たばかりのとき、大変だったんだ。自分の、「教師」としての質の低さに、ことごとく、容赦なく、気づかされるのだ。子どもたちに、いろんなことを教えられている。

 「日本語教育」という世界では、「日本語」が強すぎて、「教育」が薄すぎる。そんな世界で成人を相手に数年働いてきたわたしは、「教育」について非常に鈍くなってしまっている。

 Middle Schoolという、今の職場は、周りの同僚といえば、当たり前だが、「教育」のプロたちだ。教育畑の人たちだ。子どもの扱いは専門である。

 子どもたちから、同僚から、多くを学ぼう、と改めて自分に誓うことになった。今は、修行の時だ。考える機会を与えてくれた友人に、感謝。


その言語で考えるということ [Writing]

 L2のライティングの授業で、よく先生が言うこと、させること。「○○語(学習言語)で考えなさい」「○○語(学習言語)でメモを書きなさい」。これは、どうしてそうなのか、先生はどれほどわかっているのだろうか。

 わたしも、以前、こんなことを言っていた時期があった。その言語で活動すること、それ自体が、学習になると思っていた。つまり、その言語を使う時間がそれだけ多いわけであり、それが学習になると思っていた。

 今は、わかる。大きな間違い。まさに、教師の、そして、母語話者のエゴ。

 ライティングのクラスなのだから、ライティングを完成すること、また、完成させるまでのライティングの作業周辺のことに、注目すべきである。その言語を使う時間を少しでも長く・・・、とは、なんとターゲットの絞られていない、説明になっていない信念か。書き手に苦労も何も丸投げしていると言っても過言ではない。

 学習言語で考えたりメモをとったりすること自体を責めているのではない。そのことは、今でも、大切なことだと思う。ただし、それは、そうすることで、まさに今書いているものがよくなる、というものではなく、その書き手自身が、「その言語における書き手」としての成長につながる、のだ。

 どういうことかというと・・・

 少し前のこと。


メンター/メンティー [Teaching]

 久しぶりの更新です。。。

 ・・・というこの現状にあらわれているように、実に、めまぐるしい毎日を送っています。めまぐるしい、というか、あわただしい、というか、ぴたりとくる言葉がどうも思いつかない・・・のですが、兎にも角にも、目の前のことの処理に手一杯の、崖っぷちな毎日です。

 (教育の現場とは、こういうもんなんじゃろーか。)

 (・・・ほいでも、わたしは、その教育の現場に数年来身を置くもの。)

 (いや、でもでも、この職場は赴任したばかりじゃし、わからんことだらけじゃし、つまづきっぱなしじゃし。じゃし、じゃし。)

 (そうか、なにやってもうまくいかんのも、そりゃー無理ないわ。)

 (ほーよね。・・・でも、開き直るってのも、どうなんじゃろ。)

 ・・・そんな自問自答の毎日。ふと、思いました。

 いまこそ、わたしにメンターが必要なときだ。

= = = = =
 ビジネスの世界で、最も広く実践されている(らしい)、メンター制度。新入社員に、先輩社員があてがわれ、もろもろのケア、指導などを行う、というもの。<メンター:先輩社員、メンティー:新入社員>

 聞いたところでは、元々は、ブルックリンの不良少年たちを矯正しようとした団体の始めた取り組みの形。団体が、不良少年の「先輩(昔不良少年だった)」を「雇い」、現不良少年が更正に向かうよう、あの手この手で頑張ってもらうこと。団体は、2人が話し合いの場を持てるよう、映画のチケットを渡したり、必要そうなら知識を与えたりする。<メンター:元不良少年、メンティー:現不良少年>

 ここで、重要なこと。

 1) メンターは、メンティーの立場を経験済み(もしくは非常に近い経験を持つ)。
 2) メンターは、団体(会社など)に指揮されている。決して個人の感情的な行動ではない。
 3) メンターは、自身の動きもチェックされている。
 4) メンターは、しかるべき報酬を受け取っている。
 5) メンティーは、メンターと親しく話せる距離にいられる。

 ほかにもありそうだが、このくらいで。

 つまり、これは、組織ぐるみの人間育成計画である、ということ。決して、個人の「親切心」や「義理人情」に頼るものではない。従って、それなりの「結果」が出るよう、その「組織」はきちんとがんばらないといけない。「組織」に雇われたものも、責務を真っ当しないといけない。メンティーも、「きちんと育ててもらえる」という権利を持ち、それと同時に「育たないといけない」という目標も生まれる。

 で、これが、どうして、今のわたしに必要なのか、だ。

 わたしは、基本的に日常の仕事をひとりで担当している。だから、日常的に、誰かに相談したり、協力したり、それを仰いだり、という渦の中にはいない。これまで蓄えてきた知識や経験などを総動員して、作業をしている。しかし、うまくいかないことだらけ。うまくいかない、ということに気が付くのは、いつも失敗してから。失敗するまえに「それは危険」と言ってくれる人はいない。

 もちろん同僚はいるわけで、困ったとき、相談することはできる。みんな親切。距離的にも、非常に近くにいる。

 しかし、そこは人間。お互い忙しい。こっちも後回しになる。あっちもなんとなくスルーしたりする。それは、罪ではない。だって、仕方がないもの。忙しいんだから。

 つまり、「+α」の作業になってしまうと、優先順位が低くなる。

 こっちも、気が向いたときに、近くにいた人に質問したり、愚痴をこぼしてみたりする。ときには、質問するべき人が誰かすら分からないときもある。同じ人に同じことを言ってしまったりもする。あっちも、そのときの気分で答えたりする。つじつまがあわなかったりする。

 つまり、人と人との関係や作業スケジュールが、きちんと管理されていないと、うまく機能しない。

 なにより、遠慮してしまう。特に、お互い、ある程度の「プロ」なわけで、それぞれの道徳観とか哲学とかを知らなければ、づけづけ聞いたり、言ったりしにくいもの。

= = = = =
 あぁー、書いて頭を整理するつもりだったのに、ますます混乱してくる。

 わたしは、放っておいて育つものではない。誰かに育ててほしい。誰かに構ってほしい。きちんと。その道がわかる、然るべき人に。でも、そんな人に出会うために、自分で努力する体力も時間もコネクションもない。いつか出会えるようただ祈っていられるほど、現実はのどかではない。

 ひとりじゃ、絶対無理。
 自問自答も、限界。
 誰かに、助けてほしい。

 「大丈夫」と自分で分かっていても、それを、人から言われると、その「大丈夫」は100倍頼もしくなる。「よかったね」と自分で言うより、人から言われたほうが、100倍嬉しい。

 「自問自答システム」も、いつか実を結ぶときが来るだろう。でも、団体は、人材を育成することに力を入れないと、給料の無駄払いだ。なにより、「自問自答」している本人が、実を結ぶ前に、潰れてしまう。精神的に、相当強くないと、「自問自答」なんてやっていられない。

 そうそう。わたしも、そろそろ、潰れてしまうーーー。


自己紹介をします [自己紹介]

 きがついたら、カウンターがついに、10,000を突破していました。びっくりです。ちょくちょく覗いてくださっているかた、いらしたら、ありがとうございます。さまよって辿り着いたかた、ようこそおいでくださいました。

 いまさらですが、わたしの自己紹介をします。いろんな記事について、より、読みやすくなるのではないかと思います。

= = = = =
- 広島市 出身です
  3歳からピアノを習いました。その後、結局22歳まで、レッスンに通っていました。
  小学校の正門の前に、ある日英会話学校ができました。
  結局、小学3年生から、中学2年生まで、その学校で楽しく英語を学びました。
  高校のホームステイで行ったオーストラリアで「日本語教育」に出会いました。

- 京都外国語大学 日本語学科 卒業
  卒業論文は、文学でした。
  当時は、日本語教育に熱くなっている同級生達を、ひんやりと見ているような学生でした。
  ピアノを、ずっと弾いていました。

- 広島YMCA国際ビジネス専門学校 日本語科, 非常勤講師
  本コースを担当する傍ら、ここを通じ、さまざまなところに派遣していただきました。
  技術研修生への授業、大学の取り出し授業、高校、教育実習周辺いろいろetc.

- マレーシア・日本の、某高等教育プログラム, Lecturer
  教師間での連携について、考えさせられ、多くを学びました。
  模擬授業のコメント出し合い、お互いの授業の見学、共同のクイズ・試験の制作, etc.
  なかでも、得ることができた最も貴重な体験は、「教材づくり」です。
  この時代に得た、大切な宝物のひとつです。

- 広島大学 教育学研究科 博士課程前期     言語文化教育学専攻 日本語教育学専修 入学・修了
  認知心理学のゼミで、writingに注目し、実験研究を行っていました。
  自分の研究以外でも、コース内・外での同期生とのディスカッションなど。
  多くを考え、学び、成長しました。
  大変でしたが、すべてを自分自身に注ぐことができた、貴重な2年半でした。

- 在学中、非常勤のような形で、某企業の中国人社員の日本語研修を担当
  ビジネスの場面ならではの課題が多く、刺激的で、勉強になりました。
  研修生、共にクラスを担当した方、サポート側の方など、大変恵まれました。

- 在学中、交換留学生として、10ヶ月、University of Hawai'i at Manoaへ
  Linguistics, Second Language Studies, Psychologyを中心にコースをとりました。
  まさに身をけずって、がむしゃらに研究・勉強をした10ヶ月でした。

- タイ、バンコクの、とあるInternational School, Teacher<現在>
  所属は、Middle Schoolです。
  アメリカ系の、K-12を行っている学校です。
  Grade 6からGrade 8が担当です。

= = = = =
 実は、わたしはCV(履歴書)を書くと、大変長くなります。職歴が、几帳面に全部書くと、もっともっと細かいものがいろいろあって、大変なことになります。ここでは、割愛しました。

 わたしは、いつも、いつも、周りの方に恵まれています。

 「学びたい」、「磨きたい」と思う気持ちを、ずっと強く持っていることができているのも、そういう方に囲まれてきたからです。自分の足りないところが、いつも、すぐに見えて、もがいて、もがいて、すると、周りにステキな方がたくさんいて、手を伸ばしてくださいます。

 どれほど、この世界にいても、学ぶことは次から次に見えてきます。何歳になっても、飽きる暇がありません。

 そして、家族。わたしを支えてくれる、大きい、温かい、強い力です。

= = = = =
 将来は、これからは、どうするの?というと・・・

 今は、貯金をしているところです。貯金ができたら、アメリカの大学院で、もう一度研究をしたいと思っています。Ph,Dです。日本の大学院より、アメリカの大学院を選びます。どこの大学院か・・・、憧れる候補はいくつか・・・。

 憧れますし、それに向かって今はがんばっていますが、人生、何がどうなるか、全く予想はつかないもの。大学院に戻らない可能性だって、無限にあります。実際、これまでのわたしの人生は、予想外のことだらけ、でしたから。でも、今の、鮮やかで強い目標は、これです。

 わたし、こどものころから、かなり長く、ずっと、自分は音楽家になると信じてやみませんでした。どうして、こんなことになってしまったのでしょう。

 どうして、いつのまに、こんなに理屈っぽい人間になったのでしょう。

・・・と考えても、終わらない。自己紹介、以上です。


子どもの学びと大人の学び [Pedagogy]

 わたしは、現在、International Schoolの、Middle Schoolで日本語クラスを担当している。生徒たちは、6年生から8年生。日本でいう、小学校6年生から、中学校2年生。

 こどもは、驚くほど覚えが早い。成人相手の授業のとき、あれほど何度もドリルをしたり、ワークシートをしたりしないといけなかったのに、こどもは、覚える量もスピードも、並大抵ではない。絵カードでコーラス、文字カードでコーラスをしたら、ざっと覚えていたりする。

 では、こどもに教えるのは、なんとも簡単なことか、というと、そうもいかない。彼らのアンテナは、常になにかを探すのに忙しくしていて、「日本語の勉強」にアンテナを向けてもらうのに苦労するのだ。まず、向かせることに、次に、向かせ続けることに。つまり、クラスルーム・マネージメント。

 そして、持ち出すは、教師としての目と、教師兼研究者としての目。両方。

 教師としての目。今、わたしが教師として成長しないといけないところは、彼らのアンテナの「うまい使い手」になるということ。彼らはすぐに飽きる。それが、「簡単すぎて、チャレンジングではなくてつまらない」からなのか、「さっぱり分からないからおもしろくない」からなのか、はたまた「実ははしゃぎたいんだけど、友だちの手前クールに決めたいからぼさっとしてみようと思っている」からなのか、あのあたりを探らないといけない。

 これは感覚の問題で、時間がかかりそう。しかし、そこを磨いてlesson planをたてられるようになれば、彼らの能力や好奇心や向上心や学ぶ本能や、そのあたりを思い切り引き出すことができ、のびのび育ってもらえるのだ。

 教師兼研究者としての目。子どもがそんなにも覚えが早いのは、単に脳科学的なことが理由なのだろうか。つまり、ニューロンレベルで、ということ。たしかにそれはある。絶対ある。しかし、それ以外にもあるはず。

 例えば、彼らが無意識のうちに行っている勉強のしかた。子どもは、プライドや、恥じらいといったものが成人に比べて少なく、平たく言えば、「やりたいこと」をやっている。「やろうと思った」ことをやっている。ある意味、本能のままに。声を出しなさいとも言っていないのに、何か言いながらやっている。時には大声で叫んだりする。近くの友だちに助けを求める。近くの友だちに教えてあげる。そうしなさい、とも言っていないのに。

 「本能」とは、「学ぶ本能」のこと。まず観察に徹し、そうすれば、いつか、成人にも応用できる、基礎的な「学ぶ本能」としての行動が見つけられるかもしれない。それは、実験の大きなアイデアにつながるだろうし、そこから得られるものは、教室にもちろんフィードバックできるはず。具体的で、理論的な説明をつけて。

 どちらにしても、見逃してはいけないのは、彼らの目が、きらりっと光る瞬間。ふっと、表情が止まる瞬間。一生懸命、書き込みをしたり、読み込みをしたりしているときの表情。

 先日、これがあった。鮮やかに。

 詩を朗読したとき。知らない単語だらけの、知らない文法だらけの詩。しかし、わたしが「詩を朗読します」と言って、タイトルを太い声で言った途端、騒いでいた教室は、しーんとなった。分からないことだらけのはずなのに、何かが彼らの中で起こって、そして、最後までじっと聞いていた。

 さて、この好奇心を、どうひっぱっていくか、そこが問題。胃が痛くなるところなのだが。


直説法or間接法 - 「附に落ちる」の記憶強度 [Cognitive Psychology]

お知らせ: 現在、わたくしmamemamaはタイランドにおります。こちらで同じお仕事をすることになったのです。

= = = = =
 分類を"Cognitive psychology"とするか、"Pedagogy"とするか、ちょっと悩んだ記事。これは、言語教育の教授法を考える場合のアイデアを提供するものになるから。

= = = = =
 第二言語教育では、「直接法」で教えるか、「間接法」つまり学習者の母語を仲介言語として用いて教えるか、という選択肢があり、それぞれ現場では、その環境や学習者たち、教師自身の言語能力などを考慮にいれながら、それらを選択する。

 どちらも長所と短所があり、どちらが良い、という結論をつけるのは難しい。しかし、タイに来て、わたしが体験したこんなことを、認知心理学的に考えてみたところ、ちょっとおもしろい示唆を与えるものになった。

- - - - -
 タイに来て、タイ語の全くできないわたしは、毎日サバイバルタイ語で生きている。暮らしている村には、英語を話す人がおらず、しかし、村人たちは、容赦なくわたしにタイ語で話してくる。

 話の内容はよく分からなくても、状況から、「あー、この人は自己紹介をしているんだな」ということが分かり、そして、その人の名前を一生懸命聴き取り、覚えようとする。頭の中に何人かの名前がストックされたころ、ふと気がつく。

 クンサック、クンヤラー、クンペーン・・・。タイ人の名前って、名前の頭に「クン」がつくのが多いな・・・。

 そして、ある日お隣のおばちゃんと話していると、「クンマーク」とか「クンサラー」という名前の人が登場するのに気がつく。文脈から察するに、同じブロックに住むアメリカ人カップルのことを言っているんだけど、・・・でも、彼らの名前は「クンマーク」でもなく、「クンサラー」でもない。マークとセイラ・・・。ん?Mark and Sarah?
 
 そして、やっと気がつく。タイ語では、"クン"を名前の前につけて人を呼ぶんだー、と。日本人のボディー・ランゲージで言えば、ここで手をぽんっと打つ感じ。なーるほどー、という感じ。

 そして、タイ語学習者であるわたしは、近所のタイ人と話すときに、この「クン」を使ってみる。すると、すんなり通じる。おー、おもしろい!

 ある日、接続の申し込みをしていたインターネット会社から、電話がかかる。「クンマメと話したいのですが・・・」あ、来た、来た!「はーい。わたしがクンマメですが・・・」と話し始める。

 日本語の「さん」や「くん」は、性別によって使い分けるし、自分を名乗るときには使わない。でも、タイ語の「クン」は、これまでの体験からどうもそうではない様子なので、自分にも使ってみたところ、すんなり通じた。ここで、わたしは「附に落ちた」わけだ。

 この「クン」の例は、直説法で教わった獲得の仕方に近い。では、間接法だとどうなるだろう。

 わたしが解する言語である日本語か英語で、「タイ語では、名前の前に"クン"をつける」と先生に習って、で、日本語を母語とするわたしが「日本語では自分には使わないけど、タイ語ではどうなの?」と質問して、先生が「タイ語では自分にも使います」と説明してくれる。

 このふたつの道、かかる時間は、圧倒的に間接法のほうが短い(この記事でも、わたしは、なんとたった1文で説明しきっている)。しかも、直説法のほうでは、わたしは途中でコミュニケーションに成功していないし、誤解も起こっている。それに、「王様には使っちゃだめ」とか、そういう補足的注意(もし、あれば)をわたしはまだ知らないので、完全に獲得したとは言えない。では、「経済的だし、危険も少ないし、やはり間接法のほうが良い」と言えるだろうか。

 わたしの、この「クン」の獲得に関して言うと、直説法と間接法では、圧倒的に直説法のほうが"Episodic memories(エピソード記憶)"の数が多く、そして、強度が強い。わたしは、時間をかけて咀嚼し、自分の持っている知識などを自ら総動員させて試行錯誤をしている。

 分かりやすく言うと、日本に昔からある言葉遊びで、「○○とかけて、▽▽ととく。さて、その心は」というものに近い。聞き手の観客は、むむ?とちょっと考えて、答えが分かったときは、「ははー、そうきたか。うまいもんだな」となるわけで、これは、「○○と▽▽とには、××という共通点があります」と説明されるよりも、記憶強度が強いことは、納得していただけるだろう。

 この、「クン」のような、非常に単純な項目なら、記憶強度は問題にならないかもしれない。しかし、もう少し複雑な文法項目であったり、学習者の母語との間に微妙な「ずれ」があり、なんとも説明しにくかったりした場合、この「附に落ちる」があるとないとでは、ずいぶん獲得の速度も強度も違うと思うのだが・・・。

- - - - -
 Episodic memoryの視点から、直説法と間接法を考える、という研究は、実は、少し前から興味を持っている。認知心理学という、人の心理にスポットライトをあてて科学的に捉えようとする学問が、言語教育の現場に示唆を与えることができるテーマだと思っている。


「日本語教育」で研究するということ [つぶやき]

少し前ですが、友人と研究のことについて語る機会があり、そこで話したこと。自分が、いつか、このような姿勢を忘れることがないように、という意味でも、ここに残しておきたいと思います。

= = = = =
 「日本語教育」という研究分野は、大変若い。そのため、この専門分野での研究の蓄積というのは、それほど多くなく、よく言えば「可能性が広がっている」と、悪く言えば「やったもの勝ち」となる。

 「やったもの勝ち」とはどういうことか。

 いかなる専門分野であっても、研究というものは、「これまでの研究成果を踏まえたうえで、新しい発見、もしくは、新しい見解を、客観的に示すもの」というセオリーがある。

 そうだ。研究とは、「これまでの研究を踏まえて」いなければならない。どこまで研究が進められ、どこに矛盾点・問題点があり、どこに自分が着目するのか、具体的・客観的に説明できなくてはならない。もうひとつ。「新しく」なければならない。研究者、オリジナルのものでなければならない。

 この2つの点は、日本語教育のような、よちよち歩きの分野の場合、どう考えたら良いのだろうか。決して、「踏まえるものがなくて踏まえようがないから、踏まえなくて良い」とか、「なにやっても新しいんだから、なにやっても良い」、などにはならない。なってはいけない。

 「日本語教育」という分野は、非常に多くの分野からアイデアを得ることができる。英語教育はもちろん、第二言語教育、教育学、人類学、社会学、言語学、心理学、などなど、である。それらの分野は、すでに立派に成長し、とぎすまされ、研究手法なども確立されている。研究成果の蓄積も日本語教育とは比べものにならない。

 となると、ここは、それらの蓄積のお世話にならない手はない。

 ここで、道が2つに分かれる。ひとつは、それらの分野に入り、そこで研究の成果を出す、ということ。もうひとつは、あくまでも成果やアイデアなどは「拝借する」にとどめ、あくまでも自分の位置を「日本語教育」に定める、ということ。

 これら2つの違いは重要だ。そして、わたしの個人的な感想として、日本語教育という研究分野が、純粋に「研究」と呼ぶには到底及ばないレベルのものまで「研究」と呼ばれ、業績とされ、結果、研究分野として不安定な状態であることは、これら2つの間をふーらふーらしていることにある。

 対照研究、誤用研究など、言語をターゲットにしている研究ならば、言語学の研究手法にのっとって、言語学的に、「新しい」研究成果を出すべきである。そこがゴールになるはずである。言語学の業績は、その多くは英語が占めており、日本語を題材にするということ自体で「新しい」となることもあるが、言語学研究としてきちんと示そうとするなら、ただ「日本語だ」というだけでなく、「日本語はこのような言語であり、よって、日本語を題材にするとこのような点について新しいことが述べられる」というところまで、いかなくてはならない。

 日本語教育の研究は、言語に関するものが、圧倒的に多い。それらの多くは、日本語という言語について、何かし解明しているのだが、悲しいのは、終始、言語学的視点で述べられ、最後に、「日本語について明らかにすることは、それを学習言語とするものにとって、役に立つことだろう」、というところがつくところだ。その”しっぽ”をつけていることで、「日本語教育」の研究をしている、ということになっている。これが、わたしが言う「2つの間をふーらふーら」である。

 間違いだ。おかしい。研究として、だめだ。これがまかり通っていては、日本語教育は周囲から認められない。

 「日本語研究」を「教育」まで持ってくるのなら、研究者が一体どういった教育哲学、教育的思想、理論の上でそれを論じるのか、示さなければならない。言語学的研究成果は、それを示すための材料になるだけだ。誤用研究であれば、「誤用」とは、「間違える」とは、「母語話者的発話」とは、それらを比較することに、何の意味があるのか、それらが前面に出されなければいけない。言語学習者の学習ゴールは、母語話者に近づくことだ、と考えているのか。いや、それは違う、ある特定の事象での誤用が問題なのだ。それなら、その事象を対象とすることに、どのような意味があるのか。それらが、主張されていなければならない。

 「日本語について少しでも明らかにすることは、学習や教育の場で何かしらの役に立つことだろう」

 そんな研究は、だめだ。それなら、そんな”しっぽ”は消去して、言語学の畑で研究成果を出すべきだ。教育とは、そんなぬるいものではない。

 ・・・と言いながら、これを書いているわたし本人、これが難しかった。自分が研究を進めるうえでは、この点については厳しく考えていた。しかし、周りの人に、自分の研究を説明するのが、これがとても難しいのである。

 わたしは、修士論文を書くにあたり、心理学から多くのアイデアをいただいた。実験をいくつか行い、そこから発見があったが、その具体的・個別的な発見が、わたしが論文として述べたかったことではない。その発見から、教育の現場を見ると、そこには、改善・検討されるべき教師のエゴがあり、学習者に対する誤った先入観があり、また、新しい学習法を模索する可能性が見えるのだ。そこが、わたしの結論だ。しかし、周りの人が興味を持つところは、どうしても実験の個別的なことになってしまい、「その先」に興味をもってもらうように橋をうまく渡すのが難しい。

 難しい。難しい。だから、今わたしはここに書き留めているのだが。

 「日本語教育」のなかで、「日本語」と「教育」が、同じように重要視され、論じられることが必要だ。「日本語」が強すぎる。「教育」が弱すぎる。「人」が対象の研究であるべきである。「言語」ではない。

 ちょっと、言いたいことが数珠繋ぎになって切りがないので、ひとまず、中断。


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