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子どもの学びと大人の学び [Pedagogy]

 わたしは、現在、International Schoolの、Middle Schoolで日本語クラスを担当している。生徒たちは、6年生から8年生。日本でいう、小学校6年生から、中学校2年生。

 こどもは、驚くほど覚えが早い。成人相手の授業のとき、あれほど何度もドリルをしたり、ワークシートをしたりしないといけなかったのに、こどもは、覚える量もスピードも、並大抵ではない。絵カードでコーラス、文字カードでコーラスをしたら、ざっと覚えていたりする。

 では、こどもに教えるのは、なんとも簡単なことか、というと、そうもいかない。彼らのアンテナは、常になにかを探すのに忙しくしていて、「日本語の勉強」にアンテナを向けてもらうのに苦労するのだ。まず、向かせることに、次に、向かせ続けることに。つまり、クラスルーム・マネージメント。

 そして、持ち出すは、教師としての目と、教師兼研究者としての目。両方。

 教師としての目。今、わたしが教師として成長しないといけないところは、彼らのアンテナの「うまい使い手」になるということ。彼らはすぐに飽きる。それが、「簡単すぎて、チャレンジングではなくてつまらない」からなのか、「さっぱり分からないからおもしろくない」からなのか、はたまた「実ははしゃぎたいんだけど、友だちの手前クールに決めたいからぼさっとしてみようと思っている」からなのか、あのあたりを探らないといけない。

 これは感覚の問題で、時間がかかりそう。しかし、そこを磨いてlesson planをたてられるようになれば、彼らの能力や好奇心や向上心や学ぶ本能や、そのあたりを思い切り引き出すことができ、のびのび育ってもらえるのだ。

 教師兼研究者としての目。子どもがそんなにも覚えが早いのは、単に脳科学的なことが理由なのだろうか。つまり、ニューロンレベルで、ということ。たしかにそれはある。絶対ある。しかし、それ以外にもあるはず。

 例えば、彼らが無意識のうちに行っている勉強のしかた。子どもは、プライドや、恥じらいといったものが成人に比べて少なく、平たく言えば、「やりたいこと」をやっている。「やろうと思った」ことをやっている。ある意味、本能のままに。声を出しなさいとも言っていないのに、何か言いながらやっている。時には大声で叫んだりする。近くの友だちに助けを求める。近くの友だちに教えてあげる。そうしなさい、とも言っていないのに。

 「本能」とは、「学ぶ本能」のこと。まず観察に徹し、そうすれば、いつか、成人にも応用できる、基礎的な「学ぶ本能」としての行動が見つけられるかもしれない。それは、実験の大きなアイデアにつながるだろうし、そこから得られるものは、教室にもちろんフィードバックできるはず。具体的で、理論的な説明をつけて。

 どちらにしても、見逃してはいけないのは、彼らの目が、きらりっと光る瞬間。ふっと、表情が止まる瞬間。一生懸命、書き込みをしたり、読み込みをしたりしているときの表情。

 先日、これがあった。鮮やかに。

 詩を朗読したとき。知らない単語だらけの、知らない文法だらけの詩。しかし、わたしが「詩を朗読します」と言って、タイトルを太い声で言った途端、騒いでいた教室は、しーんとなった。分からないことだらけのはずなのに、何かが彼らの中で起こって、そして、最後までじっと聞いていた。

 さて、この好奇心を、どうひっぱっていくか、そこが問題。胃が痛くなるところなのだが。


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