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Where does your true intelligence lie? [Pedagogy]

 先日、現職中学校教師のためのワークショップがありました。そこで、担当講師の方が、今話題のMultiple Intelligenceを簡単にチェックできるシートを配ってくれました。興味のあるかた、以下の質問に答えてみてください。

手元にあるのは、英語バージョン。そのままタイプします。出典は何も書かれていませんね。これが配られたワークショップと、その講師の方の情報を、下に書きます。

EARCOS Weekend Workshop
"Teaching the Best practice Way: Classrooms of Success for All"
presenter: Nancy M. Doda

= = = = =
This survey will help you identify your areas of strongest intelligence. Read each statement, if it expresses some characteristics of yours and sounds true for the most part, jot down a "T". If it does not mark an "F". If the statement is sometimes true and sometimes false, leave it blank.

1 I would rather draw a map than give someone verbal directions.
2 If I am angry or happy, I usually know exactly why.
3 I can play (or used to play) a musical instrument.
4 I can associate music with moods.
5 I can add or multiply quickly in my head.
6 I can help a friend sort out strong feelings because i successfully dealt with similar feelings.
7 I like to work with calculators and computers.
8 I enjoy categorizing things by common traits.
9 I pick up new dance steps fast.
10 It is easy for me to say what I think in an argument or debate.
11 I enjoy a good lecture, speech or sermon.
12 I always know north from south no matter where I am.
13 I like to gather together groups of people for parties or special events.
14 Ecological issues are important to me.
15 Life seems empty without music.
16 I always understand the drawings that come with new gadgets or appliances.
17 I like to work puzzles and play games.
18 Learning to ride a bike (or skate) was easy.
19 I am irritated when I hear an argument that sounds illogical.
20 I can convince other people to follow my plans.
21 Hiking and camping are enjoyable activities for me.
22 My sense of balance and coordination is good.
23 I often see patterns and relationships between numbers faster and easier than others.
24 I enjoy building models (or sculpting).
25 I enjoy working on a garden.
26 I am good at dinging the fine points of word meanings.
27 I can look at an object one way and see it turned sideways or backwards just an easily.
28 I often connect a piece of music with some event in my life.
29 I like to work with numbers and figures.
30 Animals are important in my life.
31 I like to sit quietly and reflect on my inner feelings.
32 Just looking at shapes of buildings and structures is pleasurable to me.
33 I like to hum, whistle, and sing in the shower or when I am alone.
34 I am good at athletics.
35 I enjoy writing detailed letters to my friends.
36 I am usually aware of the expressions on other people's faces.
37 I am sensitive to the expressions on other people's faces.
38 I stay "in touch" with my moods. I have no trouble identifying them.
39 I am sensitive to the moods of others.
40 I have a good sense of what others think of me.

= = = = =
 どうでしたか?Scoring Sheetは、次回に。でも、なんとなく、どの質問がどれか、というのは、分かりますね。

English only, please! [Pedagogy]

 我が校の、大きな大きなポリシー。"English only!" わたしは、これに対して、totally negativeでもないけど、かといって、totally positiveでもない。

 明日は新しい学年の初日。それに向けて、先生たちは準備に忙しい。学年ごとでチームを組んだりして、生徒の風紀、学校生活はもちろんだけど、それより、なにより、この、"English only, please"をどうやって進めていけるか、というのが課題だ。

 我が校は、フロアーごとに学年が分かれている。わたしがJapaneseのクラスを持っているのは、4階の、6年生のフロアー。6年生の先生と話す。彼らはミーティングを持った結果、対策を練り出すことができ、そして、わたしにも協力してもらえるといいんだけど、と言う。

 こんなことをするらしい。

*そのクラス、もしくはクラスの前後、近所で英語以外を話している生徒をみつけたら、見つけた生徒は、各教室のドアに張ってある紙に、名前とクラスを書く

*担任の先生は、時間があれば、廊下を歩く

*自分の担任の生徒を紙に見つけたら、ちょっと時間をとってお話する

 これをやっているうちに、タイ語を話す子が減るんじゃないか、というのが彼らの考え。わたしは、生徒同士がやる、というところに、「こわさ」を感じて、結局お断りした。

 英語を話す、ということは、タイ語が母語の子どもにとって、extraの労力を必要とすること。だから、「何か」がいる。何か、後押しするもの。引っ張るもの。何か。

 人は、怒られて何かをするようになる生き物ではない。やりたい、やるといいことがある、と心が思うようになって、そして、何かをするんだ。

 「英語を話してくれて、ありがとう。わたしの言葉を、あなたは労力を費やして話してくれて、ありがとう。あなたと話すことができて、嬉しいわ」

 わたしに、そう言った人がいた。彼女の言葉は、これまでわたしが受けたどんな言葉よりも、「もっと英語を話したい」とわたしに思わせた。

 母語話者は、えばりがち。えらそうに、なりがち。ちょっと、待って。「ありがとう」「嬉しい」という気持ちを、前面に出していけないものだろうか。

 もっと詳しく書きたいけど、授業の準備があるので、やめ。

 わたしは、初日のクラスで、「コミュニケーション・ゲーム」をする。実際のコミュニケーションのなかで、言語は、どれほどの力を持っているか。言語があるとないとでは、どれほど違ってくるか、というのを感じてもらいたいゲーム。

 結論はね。「言語なんて、ほんの一部じゃん」ということ。それに気がついてほしい。言葉が分かたなくたって、ジェスチャー、目の表情、相手との距離、いろんなことで、わたしたちは相手のメッセージを読み取ることができる。しかし、それは、ただし、「メッセージを読み取りたい」「メッセージを伝えたい」と、双方が思っているときだけ。

 わたしの、直説法をまれに用いる、言語のシャワーを勢いよくざざざーっと浴びせるクラスに、前向きに取り組んで欲しい。「先生、何言ってるんだろう?」という目を、耳を向けてほしい。コミュニケーションは、そこから。言語なんて、あとから。


学ぶことの動機 [Pedagogy]

 一時帰国中に、久しぶりに友だちに会った。彼女とは、大学院生時代に、同じポットの湯からカップラーメンをすすった仲。彼女も今、「日本語教師」と呼ばれる仕事に就いている。そして、彼女自身タイで活躍していた時代もあり、仕事のことも、タイのことも、話す話題は山ほど。そんな中から、「教育」について、考えさせられたこと。

= = = = =
 「学習」において、その動機は重要だ。「動機づけ」という言葉もある。しかし、ふと思うと、教師側は、その動機をうまく組み込み、本当に「学習」につなげることができているのかどうか、というと、難しいところだ。

 動機を道具、もしくは口実に、学習者に無理な学習を強いている。このようなことは、よく起こっているのではないだろうか。私自身の経験を振り返っても、である。「○○試験に合格しないといけないでしょ」「○○大学に入らないといけないでしょ」「日本語が上達しないと生活で○○ができないでしょ」と言いながら、様々なことを、詰め込む。

 実際、「詰め込む」ことが必要な場合もある。短期的に集中して学習し、相当なレベルの大学に入ろうとする日本語学習者はいる。わたしが問題にしたいのは、そこではなく、それを口実に使っているというところ。

 授業の組み立て、学習項目の提出のしかた、道具の使い方、時間と量の関係、雰囲気づくり、もろもろについて、本当に、学習者が吸収していけるように、吸収したいと思えるように、考えているか。学習者、というよりも、「人間」として、その基本的な学習能力を考えているか、ということ。

 人間は、学ぶ生き物である。「どうして?」と思えば、知りたくなる。「もうちょっと頑張ればできる」と思えば、もうちょっと頑張ることができる。できて、気持ちがよければ、もっとできるようになりたい、と思う。学習が役に立つと知れば、学習を続ける。学ぶことの基本。

 それでも、そんな「基本」を教師は忘れてしまう。学習者が成人であれば、なおさら。

 学習者は、年齢が上がり、自己コントロール力もある程度上がれば、無茶な授業にもついてくる。「自習」の能力もある。成人であれば、社会性も持っているわけだから、自分が居心地が悪いと思っていても、それを教室で口にすることはそうそうない。

 そんなところに、「○○ができるようにならないと、○○になれないでしょ」などと、動機を刷り込まれると、もう、これは洗脳に近づいてくる。授業自体が、自分たちの学習の喜びを刺激することのない、質の低いものであっても、その、外から刷り込まれた動機によって、学習者の、自己コントロール能力、自習力は、どんどん発揮されていく。

 教師が、「基本」を無視して授業を進めていても、なかなか気づかないわけである。

 「タイの子どもって、特に具体的な学習目的もないし、それで大変なんじゃない?」と、カレーをつつきながらの友人のコメント。

 すぐに答えられなかったけど、それでも、「学習目的がないから大変」ということには、すぐにノーと言えた。そうじゃない。子どもたちは、はっきりとした目的を持っている。彼らは、「学習することは息をすること」のようであり、「学習することは楽しい」のだ。

 わたしは、これまで、学習者の学習目的を見つけ(○級に合格しないといけない)、それを彼らに口頭で押しつけ(○級に合格するためには、これだけテストを受けないといけない)、そうすることで、自分の無茶な授業(テストで良い点を取るための学習)も推し進めることができていた。これまでの学習者が、成人だったからだ。

 子どもはそうはいかない。「いやだ」「先生、下手」「なんでそんなことしないといけないの?」素直な言葉がどんどん口から出てくる。その度に、わたしの胸にぐさぐさと刺さるのだ。

 だから、わたしは、今の学校に来たばかりのとき、大変だったんだ。自分の、「教師」としての質の低さに、ことごとく、容赦なく、気づかされるのだ。子どもたちに、いろんなことを教えられている。

 「日本語教育」という世界では、「日本語」が強すぎて、「教育」が薄すぎる。そんな世界で成人を相手に数年働いてきたわたしは、「教育」について非常に鈍くなってしまっている。

 Middle Schoolという、今の職場は、周りの同僚といえば、当たり前だが、「教育」のプロたちだ。教育畑の人たちだ。子どもの扱いは専門である。

 子どもたちから、同僚から、多くを学ぼう、と改めて自分に誓うことになった。今は、修行の時だ。考える機会を与えてくれた友人に、感謝。


子どもの学びと大人の学び [Pedagogy]

 わたしは、現在、International Schoolの、Middle Schoolで日本語クラスを担当している。生徒たちは、6年生から8年生。日本でいう、小学校6年生から、中学校2年生。

 こどもは、驚くほど覚えが早い。成人相手の授業のとき、あれほど何度もドリルをしたり、ワークシートをしたりしないといけなかったのに、こどもは、覚える量もスピードも、並大抵ではない。絵カードでコーラス、文字カードでコーラスをしたら、ざっと覚えていたりする。

 では、こどもに教えるのは、なんとも簡単なことか、というと、そうもいかない。彼らのアンテナは、常になにかを探すのに忙しくしていて、「日本語の勉強」にアンテナを向けてもらうのに苦労するのだ。まず、向かせることに、次に、向かせ続けることに。つまり、クラスルーム・マネージメント。

 そして、持ち出すは、教師としての目と、教師兼研究者としての目。両方。

 教師としての目。今、わたしが教師として成長しないといけないところは、彼らのアンテナの「うまい使い手」になるということ。彼らはすぐに飽きる。それが、「簡単すぎて、チャレンジングではなくてつまらない」からなのか、「さっぱり分からないからおもしろくない」からなのか、はたまた「実ははしゃぎたいんだけど、友だちの手前クールに決めたいからぼさっとしてみようと思っている」からなのか、あのあたりを探らないといけない。

 これは感覚の問題で、時間がかかりそう。しかし、そこを磨いてlesson planをたてられるようになれば、彼らの能力や好奇心や向上心や学ぶ本能や、そのあたりを思い切り引き出すことができ、のびのび育ってもらえるのだ。

 教師兼研究者としての目。子どもがそんなにも覚えが早いのは、単に脳科学的なことが理由なのだろうか。つまり、ニューロンレベルで、ということ。たしかにそれはある。絶対ある。しかし、それ以外にもあるはず。

 例えば、彼らが無意識のうちに行っている勉強のしかた。子どもは、プライドや、恥じらいといったものが成人に比べて少なく、平たく言えば、「やりたいこと」をやっている。「やろうと思った」ことをやっている。ある意味、本能のままに。声を出しなさいとも言っていないのに、何か言いながらやっている。時には大声で叫んだりする。近くの友だちに助けを求める。近くの友だちに教えてあげる。そうしなさい、とも言っていないのに。

 「本能」とは、「学ぶ本能」のこと。まず観察に徹し、そうすれば、いつか、成人にも応用できる、基礎的な「学ぶ本能」としての行動が見つけられるかもしれない。それは、実験の大きなアイデアにつながるだろうし、そこから得られるものは、教室にもちろんフィードバックできるはず。具体的で、理論的な説明をつけて。

 どちらにしても、見逃してはいけないのは、彼らの目が、きらりっと光る瞬間。ふっと、表情が止まる瞬間。一生懸命、書き込みをしたり、読み込みをしたりしているときの表情。

 先日、これがあった。鮮やかに。

 詩を朗読したとき。知らない単語だらけの、知らない文法だらけの詩。しかし、わたしが「詩を朗読します」と言って、タイトルを太い声で言った途端、騒いでいた教室は、しーんとなった。分からないことだらけのはずなのに、何かが彼らの中で起こって、そして、最後までじっと聞いていた。

 さて、この好奇心を、どうひっぱっていくか、そこが問題。胃が痛くなるところなのだが。


教室の壁全部が黒板だったら・・・ [Pedagogy]

 あるクラスの、今学期が始まってから今まで、class meetingでどんなことをディスカッションしたか、ということについて振り返っている。

 たくさんのことを話した。たくさんのことを学んだ。

 で、ふと思い出した、先生の言葉。

 そのとき、彼女はある研究領域における派閥の、それぞれのposition、相互の関係、歴史的流れなど、について説明していた。白熱してきた彼女が、文字がつまりにつまって、もう余白のなくなってしまった黒板を見て、一言。

「教室の壁全部が黒板だったらいいのに、って私いつも思うのよっ!」

 熱い勢いを、黒板の面積という限りある物に邪魔された彼女の憤りを見て、「本当に、今、壁全部を黒板にしてあげたい・・・」と、そのときは単純に思った。

 少し時間がたった今、その彼女の言葉を振り返ってみると。それって、とても面白いアイデアだ。

 教室の前側にしか黒板がない、という設計は、つまり、主に黒板を使うのは教師で、学生たちがそれを使うには、先生に「どうぞ」と言ってもらわないといけない、ということだ。これって、不公平である。もし壁全部が黒板だったら、学生たちから教師やクラス全体に対して、もっと積極的アウトプットができそうである。Interactionの多いクラス活動ができそうである。

 例えば、「グループディスカッションをして、その結果をまとめてクラスで発表してください」、のような教室活動をする場合。それぞれのグループが、近くの壁に、結果を書いて、もしくは書きながら発表できたら、とても素晴らしいと思う。

 他には、日本語教育なら文字の練習で、もう、壁中にめちゃくちゃに書きまくる、という楽しい活動もできる。小学生のころ、書道の授業で、水だけをつけた筆で黒板に文字を練習したのを思い出していただきたい。あの、何度でも練習できる、思いっきり書ける、人の書いたものに気軽に茶々が入れられる、という空気は、とても気持ちがいいし、間違えるのも怖くなくなるし、クラスも学生個人も活発になると思うのだ。

 教室にいる全員が平等にチョークを持って、書く場所を持っている、という開放感。ちょっと想像してみる。床にチョークの粉が散らばって大変だ、というぐらいしか、マイナス面が思いつかない。

 だれか、新鋭建築家でも、そんな教室を設計してみてくれないだろうか。あ、いや、工具店に行けば、黒板用ペンキは売っているから、自分で作ればいいのだ。どこか、そんなものにチャレンジしてくれる教室はないだろうか、と思う。

 私が、いつか自分の教室を持つようになったら、このアイデアは絶対実現させたい。


学生(or生徒)としての視点から学ぶこと [Pedagogy]

 「反面教師」という言葉があるが、その反対の言葉は何だろう。

 私は、仕事を辞めて大学院に入ってから、すっかり「学生」である。学生として大学院の先生方と接触があると、ついつい、「教師」として見てしまう。すみません、先生。

 米国に留学してから出会った先生方は、みなさん、「教える」ということに、ひとつポリシーというか、筋がとおっていて、特徴がある。「あ、これいただき」とか、「私にやりかたが似ているな」とか、「私には絶対無理」とか、教師として観察してしまうことが多い。

 あくまでも、一般的に、そして比較的に、の話だが、やはり、日本の大学院に比べ、米国の大学院の先生方のほうが、「教える」ということに長けている。クラスを大切にし、学生を「育てる」ことに誠実な気がする。

 と、いつもそんなことも考えながら授業にのぞんでいるわけだが、今日の"Hawai'ian Ensemble"のクラスでも、やはりそんなことを思うことがあって、ここに書き留めておこうと思う。

 音楽の教育をきちんとした形(学校の音楽の授業などではなくて、という意味)で受けた経験のある方なら、分かって頂けるかもしれない。音楽のレッスンでは、生徒が演奏している間、先生は何をしているか、というと、

○指揮者的に演奏をリードしていく(口とか、体とか、全部を使って。通常大げさ)
○「そうそう!」「いいよっ!」など、ポジティブなフィードバックをし、テンションを盛り上げてくれる
○テンポをキープしたままで、よいタイミングで「もう一度」などと言い、暗に不十分であったことを諭す

というのが、私自身の個人的経験による「先生の仕事」である。

 私は、確か幼稚園生のときから「音楽」というものの教育を受けている。私の教師の信念(belief)は、ここに端を発するのだと、気がついた。

 いくら知識があっても、練習しないとうまく弾けるようにならなかった。不十分のままレッスンに行って、「できていない」ということは、誰よりも自分が一番分かっていた。曲が終わりそうなところで、「Cのところからもう一度行ってみようか」と言われたら、「先生、気がついたんだ」と、できていない自分に情けなくなる。先生が横で、人差し指をピアノの天板に叩き付けながらカウントを取ってくれて、ときどき、高いところの鍵盤で一緒に弾いてくれて、「優しく、優しく」と体を縮めながらささやいてくれて、うまく弾けなかったところが、するりと弾けたりした。どう解釈していいのか分からなかったところが、ぴかっとひらめいたりもした。

 自分で練習する必要があるのは、当然。こつこつ地道に練習しなければ弾けるようにはならない。そして、先生の家に行ってレッスンを受ける時間は、決して「どのくらい練習したか、試される時間」ではない。先生は、私に、ひとつ上の階段に上らせてくれる。できないときは手伝って上らせてくれる。できていたときは「あなたはひとつ上ったよ」と、嬉しい言葉でそれを教えてくれる。

 今日のクラス、"Hawai'ian Ensemble"は、大勢が集まって音楽を楽しもう、というクラスなので、私の受けてきた、ピアノの個人レッスンのような厳しさはない。しかし:

●雰囲気をつくること
●みんなを然るべき方向にさりげなくリードしていること
●一人一人の音に耳を澄ませていること
●うまくできていることが確認できると、個人宛にものすごい笑顔でうなずくこと
●生徒たちを「調子に乗せる」こと

等々の点は、私の信念を、基盤はそのままに、新たに書き換えた。

 言語の勉強だって、相当の義務で勉強している方もいるだろうが、「楽しむ」ことが必要なことが多いと思う。調子に乗って、繰り返し練習している間に、あららら、できちゃったよ、先生♪、ということがあっても、またそれを目指すことがあってもいいのではないか。

 私は、第二言語について考えるとき、自分の中の音楽で考えることが多い。私は、音楽は言語と共通するところが多いと思っている。今日も、それだった。


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