Portfolio Assessment ポートフォリオ評価 [Teaching]
評価の仕方には、いろいろあって、その中からどれを選ぶか、どのように選ぶか、は教師の手腕にかかっている。- - - と書くと、「こりゃ大変だぞ」と思ってしまうが、実は、「教師個人が選べる」というのは、大変ありがたい状況だと言える。学校やデパートメントで設定され、それに従わなければならない、もしくは、ティームティーチングをしているので、自分で決める訳にはいかない、などといった状況が普通だからだ。
「だれかが決めてくれたほうが楽」なのは、その通り。しかし、自分の授業は自分でデザインしたい。自分の生徒は自分と向き合ってほしい。
向き合うの?「評価」なのに???
という疑問を持たれたかた。「評価」が、何かのランクをつけること、合否を決めることなど、「ある一定の期間の学習の成果をある時期に下し、それを伝える」ものであれば、その疑問はその通り。しかし、別の「評価」もある。教師から生徒への、フィードバックとしての、メッセージとしての「評価」も存在する。それは、「ある一定の期間の学習」に対し、「ある一定の期間を費やし」、さらに、「その後の将来も見据えている」もの。その「期間」に、何が起こっているか、を見るもの。その「何」に対してメッセージを送り、「その後どうなったか」も、チェックするもの。生徒に向き合っているのだ。
生徒一人一人と向き合わないといけない。生徒一人一人、それぞれの対処をしないといけない。これは、多大な労力を費やすもの。しかし、「評価」を「教育」の一部に組み込んでしまうためには、労力は費やして当然。
わたしも、「楽」はしたい。「誰かが全部決めてくれて、それについていきさえすれば学期が過ぎていく、そんな毎日がほしい」と、これまでどれほど願ったか分からない。しかし、もうわたしは、自分の現在教えている環境を見て、単に結果を下すだけの評価は、彼らの学習につながらないと気がついてしまった。そして、わたしは、わたしの自由にできる環境にある。こうなったら、もう、やるしかないではないか。
しばしの日本帰国で見つけたこの本。自分の現在の状況を考えれば、英語で書かれた本のほうがずいぶん有用だが(他の先生とシェアしやすいので)、しかし、自分の国であり、自分の教える教科にも関わる「日本」という国で、どのように考えられているのかを知るためにも、日本語のものをひとつ、きちんと読み、咀嚼しようと思っている。
Electronic Portfolioというものを、実は、うちのデパートメントでは行っている。しかし、現在のところ、それは全体の評価の20%に過ぎないし、なにより、生徒のつくったポートフォリオをみて、その完成品を評価するスタイルに設定されている。わたしは、かねがね、これが疑問だった。生徒にも「どうして作らないといけないのか」とよく不満を含めて聞かれた。たしかに、彼らが、「これは作っていて楽しい」「これを作ることで自分は学んでいる」と、作業の途中で気づく機会は、今までの状況では与えられていないのだ。完成品に対する評価を見せられ、「あーいまひとつだったんだな」と気づいて、それでおしまい。それじゃ、いけない。それじゃ、教育になっていない。
この夏、ペンシルベニア州立大学で開かれた、言語教師のためのワークショップに参加してきた。そこで、ポートフォリイオ評価法についてのコースを選択し、多くを学んだ。わたしが、今、ここに述べてきたような心境にあるのは、これによるところが大きい。
さて、デパートメントで、Electronic Portfolioを共に授業で行っている、他の言語の先生たちを説得できるか。そこが課題かな。そのためにも、しっかり読もう。
「だれかが決めてくれたほうが楽」なのは、その通り。しかし、自分の授業は自分でデザインしたい。自分の生徒は自分と向き合ってほしい。
向き合うの?「評価」なのに???
という疑問を持たれたかた。「評価」が、何かのランクをつけること、合否を決めることなど、「ある一定の期間の学習の成果をある時期に下し、それを伝える」ものであれば、その疑問はその通り。しかし、別の「評価」もある。教師から生徒への、フィードバックとしての、メッセージとしての「評価」も存在する。それは、「ある一定の期間の学習」に対し、「ある一定の期間を費やし」、さらに、「その後の将来も見据えている」もの。その「期間」に、何が起こっているか、を見るもの。その「何」に対してメッセージを送り、「その後どうなったか」も、チェックするもの。生徒に向き合っているのだ。
生徒一人一人と向き合わないといけない。生徒一人一人、それぞれの対処をしないといけない。これは、多大な労力を費やすもの。しかし、「評価」を「教育」の一部に組み込んでしまうためには、労力は費やして当然。
わたしも、「楽」はしたい。「誰かが全部決めてくれて、それについていきさえすれば学期が過ぎていく、そんな毎日がほしい」と、これまでどれほど願ったか分からない。しかし、もうわたしは、自分の現在教えている環境を見て、単に結果を下すだけの評価は、彼らの学習につながらないと気がついてしまった。そして、わたしは、わたしの自由にできる環境にある。こうなったら、もう、やるしかないではないか。
教科と総合に活かすポートフォリオ評価法―新たな評価基準の創出に向けて
- 作者: 西岡 加名恵
- 出版社/メーカー: 図書文化社
- 発売日: 2003/06
- メディア: 単行本
しばしの日本帰国で見つけたこの本。自分の現在の状況を考えれば、英語で書かれた本のほうがずいぶん有用だが(他の先生とシェアしやすいので)、しかし、自分の国であり、自分の教える教科にも関わる「日本」という国で、どのように考えられているのかを知るためにも、日本語のものをひとつ、きちんと読み、咀嚼しようと思っている。
Electronic Portfolioというものを、実は、うちのデパートメントでは行っている。しかし、現在のところ、それは全体の評価の20%に過ぎないし、なにより、生徒のつくったポートフォリオをみて、その完成品を評価するスタイルに設定されている。わたしは、かねがね、これが疑問だった。生徒にも「どうして作らないといけないのか」とよく不満を含めて聞かれた。たしかに、彼らが、「これは作っていて楽しい」「これを作ることで自分は学んでいる」と、作業の途中で気づく機会は、今までの状況では与えられていないのだ。完成品に対する評価を見せられ、「あーいまひとつだったんだな」と気づいて、それでおしまい。それじゃ、いけない。それじゃ、教育になっていない。
この夏、ペンシルベニア州立大学で開かれた、言語教師のためのワークショップに参加してきた。そこで、ポートフォリイオ評価法についてのコースを選択し、多くを学んだ。わたしが、今、ここに述べてきたような心境にあるのは、これによるところが大きい。
さて、デパートメントで、Electronic Portfolioを共に授業で行っている、他の言語の先生たちを説得できるか。そこが課題かな。そのためにも、しっかり読もう。
2008-07-28 02:25
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