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6+1 Writing Traits 日本語版ポスター 教室掲示用 [Teaching]

 ものすごく久しぶりの投稿。

 今日の仕事のひとつ。かねてから、ずっと作ろう作ろう、作らねば作らねば、と思っていた、6+1 Writing Traitsの日本語版教室掲示用ポスターを、ついに作った。よし、今だ!と何かが頭に降りて来て、一気に仕上げた。

 こういうものは、「一気に」に限る。というのも、レイアウトやフォント、言葉遣いなど、7枚のポスターで統一しなければいけないことは、いろいろ、多岐にわたるから。

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 北米で作られた、作文に対する指導、評価、指針のひとつ。イギリス式の、わたしの学校では、知られていないし、もちろん、使われてもいない。日本のNational Curriculum 学習指導要領とも、ずいぶんことなる。それでも、わたしは、自分なりに勉強して、読み砕いて、噛み砕いて、実際に教室にも持って行って、生徒たちと共有して、そして今、これを使い続けて行こう、と思っている。

 日本語のがあってもいいと思う。とかく文法や漢字表記に注目が行きがちな作文指導/評価。それは、日本語教育も国語教育も同じ。わたしは、それに、多いに異を唱える。それら「文法」「漢字表記」は、7つあるtraitsの中の、たった一つにすぎない。もっと、もっと、子どもたちの能力の中で、すくいとってあげるところがあるはず。花を開くのを手伝ってあげられるところがあるはず。
 
 どうでしょうか?

RubiStarでつくるRubric [Teaching]

 RubiStarというwebsiteがある。大変便利で、頻繁に活用している。

 今では、そんなことも書けるけれども、恥ずかしながら、数年前まで、わたしは"Rubric"という概念はおろか、言葉さえ知らなかった。わたしの生息していたところでは、それが話に出ることはなかった。今では、どうなんだろう?

 Rubricは、大変便利で、どういうところが便利なのかというと:

1 透明性(transparency)がある
 生徒にも一目で分かる、評価基準。自分の、なにがよくて、なにが足りなかったのか、一目瞭然。これは、採点するほう(教師)にも重要なこと。採点しているうちに、基準がぶれてくるのを防いでくれる。

2 単純
 Rubricをつくること自体は、ひとつの仕事になってしまうけれども、いざ採点するときになると、大変、楽。ちゃっちゃとチェックしていって、合計すればいいだけ。複数名の教員で採点をして、その平均をとる、といったことも、簡単にできる。生徒でも(たとえおちびでも)簡単に自己採点ができる。

3 客観的
 2で「自己採点ができる」と書いたが、その自己採点のときに重要なのは、どれほど自分の作業を客観的にみられるか、だ。Rubricなら、各セルに書かれている説明を読むことで、生徒たちは、作業の途中でも、自分がきちんと基準に沿っているか、要求を満たしているか、について客観的にチェックできる。そして、方向修正、editingなどを行うことができる。
 さらに言うと、プロジェクト、作業、課題の導入・紹介の段階で提示すれば、教師が生徒たちになにを求めているのか、はっきりと共有することができる。彼らは、ゴールに向かって、計画的に進むことができる。

4 視覚的
 Rubricを眺めることで、「なーんとなく右(よい得点側)に寄ってるな」「ひとつだけ飛び抜けて左寄りだ」などに気がつくことができる。例えば、クラス全体のRubricをぱらぱら、と眺めて、あるひとつの項目について、多くの生徒がどちらかに偏っている傾向があったとする。それは、自分の指導へのフィードバックとなる。説明が足りなかったのではないか?事前のタスクが不十分だったのではないか?または、このレベルには、この要求は簡単すぎたのではないか?など、振り返る材料になる。

 そんなこんなで、今もRubiStarをつかったRubric作りに励んでいる。前の投稿で書いた、Portfolioで、必要なのだ。

 学期の途中で、わたしは、生徒ひとりひとりと、conference、つまり面談のようなものをするつもりだ。そのときに、一緒にRubricを眺めて、「ねえ、どう思う?」などと、話をするのだ。

 RubiStarについてはもちろん、Rubricそのもののことでも、アイデア、コメントあったら、お願いします。

Portfolio Assessment ポートフォリオ評価 [Teaching]

 評価の仕方には、いろいろあって、その中からどれを選ぶか、どのように選ぶか、は教師の手腕にかかっている。- - - と書くと、「こりゃ大変だぞ」と思ってしまうが、実は、「教師個人が選べる」というのは、大変ありがたい状況だと言える。学校やデパートメントで設定され、それに従わなければならない、もしくは、ティームティーチングをしているので、自分で決める訳にはいかない、などといった状況が普通だからだ。

 「だれかが決めてくれたほうが楽」なのは、その通り。しかし、自分の授業は自分でデザインしたい。自分の生徒は自分と向き合ってほしい。

 向き合うの?「評価」なのに???

 という疑問を持たれたかた。「評価」が、何かのランクをつけること、合否を決めることなど、「ある一定の期間の学習の成果をある時期に下し、それを伝える」ものであれば、その疑問はその通り。しかし、別の「評価」もある。教師から生徒への、フィードバックとしての、メッセージとしての「評価」も存在する。それは、「ある一定の期間の学習」に対し、「ある一定の期間を費やし」、さらに、「その後の将来も見据えている」もの。その「期間」に、何が起こっているか、を見るもの。その「何」に対してメッセージを送り、「その後どうなったか」も、チェックするもの。生徒に向き合っているのだ。

 生徒一人一人と向き合わないといけない。生徒一人一人、それぞれの対処をしないといけない。これは、多大な労力を費やすもの。しかし、「評価」を「教育」の一部に組み込んでしまうためには、労力は費やして当然。

 わたしも、「楽」はしたい。「誰かが全部決めてくれて、それについていきさえすれば学期が過ぎていく、そんな毎日がほしい」と、これまでどれほど願ったか分からない。しかし、もうわたしは、自分の現在教えている環境を見て、単に結果を下すだけの評価は、彼らの学習につながらないと気がついてしまった。そして、わたしは、わたしの自由にできる環境にある。こうなったら、もう、やるしかないではないか。


教科と総合に活かすポートフォリオ評価法―新たな評価基準の創出に向けて

教科と総合に活かすポートフォリオ評価法―新たな評価基準の創出に向けて

  • 作者: 西岡 加名恵
  • 出版社/メーカー: 図書文化社
  • 発売日: 2003/06
  • メディア: 単行本



 しばしの日本帰国で見つけたこの本。自分の現在の状況を考えれば、英語で書かれた本のほうがずいぶん有用だが(他の先生とシェアしやすいので)、しかし、自分の国であり、自分の教える教科にも関わる「日本」という国で、どのように考えられているのかを知るためにも、日本語のものをひとつ、きちんと読み、咀嚼しようと思っている。

 Electronic Portfolioというものを、実は、うちのデパートメントでは行っている。しかし、現在のところ、それは全体の評価の20%に過ぎないし、なにより、生徒のつくったポートフォリオをみて、その完成品を評価するスタイルに設定されている。わたしは、かねがね、これが疑問だった。生徒にも「どうして作らないといけないのか」とよく不満を含めて聞かれた。たしかに、彼らが、「これは作っていて楽しい」「これを作ることで自分は学んでいる」と、作業の途中で気づく機会は、今までの状況では与えられていないのだ。完成品に対する評価を見せられ、「あーいまひとつだったんだな」と気づいて、それでおしまい。それじゃ、いけない。それじゃ、教育になっていない。

 この夏、ペンシルベニア州立大学で開かれた、言語教師のためのワークショップに参加してきた。そこで、ポートフォリイオ評価法についてのコースを選択し、多くを学んだ。わたしが、今、ここに述べてきたような心境にあるのは、これによるところが大きい。

 さて、デパートメントで、Electronic Portfolioを共に授業で行っている、他の言語の先生たちを説得できるか。そこが課題かな。そのためにも、しっかり読もう。

直説法とか間接法とか [Teaching]

 直説法がいいとか、間接法がいいとか、そういった議論があるが、はた、と思う。この議論って、「言語学習の場面で」学習言語を使うかどうか、っていうことなのか?それとも、普段の、いろんな簡単なやりとりから、学習言語を使って、どっぷり、たっぷり、シャワーを浴びてもらうことなのか?

 わたしの今の職場では、わたしは、基本的に、媒介語である英語を活用している。やはり、大変便利。というか、中学生だと、媒介語ないと、絶対無理だな。叱る、ほめる、活動を指示する、など、やっぱり、英語が使えると大変便利。

 しかし、わたしは、日本語母語話者なわけで、生徒たちにも、できるだけ、日本語に触れてもらいたいわけで、と思う。しかし、変に日本語を英語に挟むのは、とっても気持ちが悪いものだ。

 具体的には、いろんな話をするなかで、返事だけは、「はい」と「いいえ」を使うとか。さっきまで、英語でぺらぺらしゃべっていた癖に、会話練習になると、突然日本語になるとか。大変、変。

 自分でもそう感じるので、わたしは、英語を話しているときは、英語ばっかり使っている(ような気がする)。

 先日、"Japanese only day"をもうけてみた。"Only"だから、ほんっとうに、日本語しか話さない、という日。

 結論から言うと、なかなかよかった。子どもたちは、協力して、わたしの日本語を理解しようとしていた。

・・・続きは今度書きます。


Counting 数のお勉強に役立つ? [Teaching]

 数に関係のある勉強では、このHPにお世話になっている。これは、どの言語の学習にも便利なはず。実際、うちの学校の他言語の先生に教えて、喜ばれた。

Web Metronome - a free online metronome

 まず、アラビア数字が、大きく表示されるところが、よい。そして、速さが変えられること、表示される数字の幅が変えられるのも、大変に便利。

 例えば、1から10までの練習。一番遅いペースにして、全体練習。発音などの確認。その後、生徒に使い方を教えて(彼らはすぐに自分で見つけるけど)、それぞれコンピュータの前で練習。速さを変えながら、少しずつ、自分のペースでチャレンジしていくことができる。一番下の、タイマーを使えば、何秒以内に言えたか、などの競争にも使える。

 他には、「〜時」とか「〜月」などの、接尾辞をつけるバージョンでも使える。数字を「12」に合わせればいいから。

 応用編としては、漢字の学習でも。見て、ぱっと書けるかどうか、といったように。数字が最大32までしかないのが、残念だけれども。

 子どもは、速さを競うのが、大好き。毎日、教室に入って来るなり、クラスメートと、「いち、に、さん・・・」と競争している。

 日誌に、今日はどの速さまでできたか、などをつけて、自分の成長を見て喜んだりもできる。「じゃ、明日は、130 Beats をチェックするよー」のように、宿題も出しやすい。

 そのうち、GarageBandかAudacityを使って、ひとりひとり、録音させる予定。そういうのがあると、彼らは、俄然、やる気になる。

 そもそも、メトロノーム自体、大変便利だ。促音や長音の練習で使えるのはもちろんのこと、すらすら言えるまでの口頭練習でも、使える。何かの作業のとき、生徒を意図的に「焦らせる」ためのBGMとしても、活躍する。これまでも、アナログのものを使ったことは何度かあったが、今回、onlineで見つけて、重宝している、というわけ。

 ま、これというのも、教室に、コンピュータとプロジェクタ、生徒用のコンピュータが数台ある、という、学校の設備があってこそ、だが。

 テクノロジーは、どんどん使わないと、ね。

 授業用にも、自分自身や生徒(学生、受講者)の自習用にも、身近な方に紹介してみてください。


Crisis of Identity [Teaching]

 ある生徒の父兄が、わたしを訪ねてオフィスにやってきた。その子のクラスは、レベル差があり、マネージメントにいつも頭を悩ませ、また、子どもとの関係作りも、難航しているクラス。「あー、ついに父兄の苦情に発展したか」、と、身構え、しかし、腰は引け気味、気持ちはどーんより。

 お母さんが部屋に入ってきた。にこにこ。そして、背中に子ども、Prlちゃんがくすくす言いながら隠れている。ん???苦情じゃない?

 話をすると、Prlちゃんのお母さんは、タイの公立学校で、現役の先生。やってきたてで、しどろもどろ、失敗を繰り返したりしている私の話を聞いて、励ましたくてわざわざ来てくださったらしい。あー、涙出る。

 中学生は、まだ子どもでも、わがままがどんどん出てくる。反抗的にもなる。悪口やいたずら、つくウソの質も悪くなってくる。それには、がつんと、強気に出ないといけないこと。なんだかんだ言っても、先生には勝てないんだ、としっかり見せないといけないこと。

 教師の「先輩」として、貴重な言葉をいただく。心に響く。

 いろいろ話を聞くなかで、一番印象に残ったこと。

 「欧米に染まって、染まりすぎて、子どもたちは、タイであることを忘れていきます。タイやアジアの、美しく誇るべき、謙虚さ、従順さ、人を尊敬する心、礼儀を重んじる心を、インターナショナルスクールに入った子どもは、簡単に失ってしまいます。わたしは、この子をこの学校に入れましたが、タイの心を忘れるな、と、何度も言い聞かせています。実際、この学校の子どもたちを見て、正直、失望することも多いです。日本から来た日本人であるmamemama先生は、どう思いますか?日本に、タイと共通する、美しいものがあるとしたら、わたしは、先生に、学校で、生徒に教えて欲しいのです。」

 これを聞いて、わたしは確信した。わたしは、ここにいて、欧米一色のインターナショナルスクールにいて、でも、アジアを貫いていいんだ。日本を出していいんだ。「わたしは、この方針だ」と、声を大にして、堂々と言っていいんだ。

 それでも、わたしのidentityは、大変に、揺らぐ。それは、とても、辛いこと。

 きっと、子どもたちこそ、この、"crisis of identity"の波を受けている。

 この辛い波を乗り越える、もっとも簡単な方法。それは、どれにするかをとにかく決めてしまい、あとは、それにどっぷり浸かること。自分はどっちなんだろう、どっちになりたいんだろう、それぞれのいいところ、悪いところってなんだろう、の、悩む課程は、スルー。

 わたしは、それは、よくないsolutionだと思っている。大人だし、いろんな文化を体験してきたから、分かる。でも、子どもは分からない。

 先生は、欧米人。学校は、"English only"を叫ぶ。親も、英語を話せることはいいことだ、と言う。英語が話せることは、誇りだし、すごいことだ、と言う。翻って、英語が話せる人は、すごい、偉い、ということにも、なる。そんな課程で育ち、子どもは、その意識を、どんどん吸収していく。子どもは、自分で判断が、まだうまくできない。

 だから、簡単な方向に、進んでいく。欧米に染まること。それが、一番簡単なこと。タイである親も、親戚も、気がついたら、もう止められなくなっている。

 わたしは、どうしたらいいんだろう。と、それでもまだ、思う。

 それは、わたし自身、まだ、"crisis of identity"の波の大きなチューブに、飲み込まれているところだから。抜け出せていないから。

 これは、辛い。辛いです。


『脳科学を活かした授業をつくる』本田恵子著 [Teaching]

 日本に一時帰国していたときに買った本。Bangkokに戻ってから、今日初めて、コーヒーショップで開いた。

 大変、大変、面白い。これは、アンダーラインをひいたり、メモをとったり、付箋紙を貼ったりしながら、きちんと読みたい!と思い、のんびりするはずだったコーヒーショップを、そそくさと後にした。

 わたしの研究・興味は、理屈っぽくて、実験室的で、現場と離れているように思われがち。しかし、わたしの中では、はっきりと、現場と結びついていた。それを、本にして、説明してくださっている。あー、嬉しい。

 この本のいい(わたしが嬉しい)ところ。

1 しっかりとした脳科学に基づいている
 これまでの研究成果から、最新のものまで、基礎的な研究がベースになっている。専門的なところから、きちんと考えられていることがわかり、信頼できる。この手の専門書は、とかく、教育現場だけ、とか、研究者だけ、とか、そういう限られた世界で活躍する著者が、限られた世界の読み手に訴えるものが多い。これは、そうではない。研究と、教育の現場が、両方、しっかりと見据えられている。
 教師、教師した色の本は、どうも主観や著者の経験が前に出て、「あー、そうですか」「あなたはそうかもしれませんけど」と、(失礼だが)思うものだ。これは、違う。実験や研究に基づいて、客観的に述べられている。

2 教育全般である
 「日本語教育」のように、一部のものを対象としいていない。「学ぶ」ということ、そのものをターゲットとしている。いかなる分野の教育も、原点に戻って、学習者、生徒、学生を、学ぶ生身の人間として考え直すことができるのではないだろうか。

3 知識と実践両方について述べられている
 最初が、学問的な、「理論編」。後半が、現場に近づいた、「実践編」。「実践編」では、具体的な教科(社会科、など)が挙げられ、指導単元(南北戦争、など)、生徒の様子(自分のことになるとおしゃべりになる、など)も挙げられている。読んでいて、イメージしやすい。
 自分の気にしている教科や単元が、それと異なっていても、「理論編」で、基礎的な背景は分かっているので、自身で、自分の場面に置き換えることができる。構成がうまくできている。

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 さて、家に帰ったので、コーヒーを入れて、読み直さないと。

 読まれた方、いらっしゃったら、コメントを聞かせてください。


メンター/メンティー [Teaching]

 久しぶりの更新です。。。

 ・・・というこの現状にあらわれているように、実に、めまぐるしい毎日を送っています。めまぐるしい、というか、あわただしい、というか、ぴたりとくる言葉がどうも思いつかない・・・のですが、兎にも角にも、目の前のことの処理に手一杯の、崖っぷちな毎日です。

 (教育の現場とは、こういうもんなんじゃろーか。)

 (・・・ほいでも、わたしは、その教育の現場に数年来身を置くもの。)

 (いや、でもでも、この職場は赴任したばかりじゃし、わからんことだらけじゃし、つまづきっぱなしじゃし。じゃし、じゃし。)

 (そうか、なにやってもうまくいかんのも、そりゃー無理ないわ。)

 (ほーよね。・・・でも、開き直るってのも、どうなんじゃろ。)

 ・・・そんな自問自答の毎日。ふと、思いました。

 いまこそ、わたしにメンターが必要なときだ。

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 ビジネスの世界で、最も広く実践されている(らしい)、メンター制度。新入社員に、先輩社員があてがわれ、もろもろのケア、指導などを行う、というもの。<メンター:先輩社員、メンティー:新入社員>

 聞いたところでは、元々は、ブルックリンの不良少年たちを矯正しようとした団体の始めた取り組みの形。団体が、不良少年の「先輩(昔不良少年だった)」を「雇い」、現不良少年が更正に向かうよう、あの手この手で頑張ってもらうこと。団体は、2人が話し合いの場を持てるよう、映画のチケットを渡したり、必要そうなら知識を与えたりする。<メンター:元不良少年、メンティー:現不良少年>

 ここで、重要なこと。

 1) メンターは、メンティーの立場を経験済み(もしくは非常に近い経験を持つ)。
 2) メンターは、団体(会社など)に指揮されている。決して個人の感情的な行動ではない。
 3) メンターは、自身の動きもチェックされている。
 4) メンターは、しかるべき報酬を受け取っている。
 5) メンティーは、メンターと親しく話せる距離にいられる。

 ほかにもありそうだが、このくらいで。

 つまり、これは、組織ぐるみの人間育成計画である、ということ。決して、個人の「親切心」や「義理人情」に頼るものではない。従って、それなりの「結果」が出るよう、その「組織」はきちんとがんばらないといけない。「組織」に雇われたものも、責務を真っ当しないといけない。メンティーも、「きちんと育ててもらえる」という権利を持ち、それと同時に「育たないといけない」という目標も生まれる。

 で、これが、どうして、今のわたしに必要なのか、だ。

 わたしは、基本的に日常の仕事をひとりで担当している。だから、日常的に、誰かに相談したり、協力したり、それを仰いだり、という渦の中にはいない。これまで蓄えてきた知識や経験などを総動員して、作業をしている。しかし、うまくいかないことだらけ。うまくいかない、ということに気が付くのは、いつも失敗してから。失敗するまえに「それは危険」と言ってくれる人はいない。

 もちろん同僚はいるわけで、困ったとき、相談することはできる。みんな親切。距離的にも、非常に近くにいる。

 しかし、そこは人間。お互い忙しい。こっちも後回しになる。あっちもなんとなくスルーしたりする。それは、罪ではない。だって、仕方がないもの。忙しいんだから。

 つまり、「+α」の作業になってしまうと、優先順位が低くなる。

 こっちも、気が向いたときに、近くにいた人に質問したり、愚痴をこぼしてみたりする。ときには、質問するべき人が誰かすら分からないときもある。同じ人に同じことを言ってしまったりもする。あっちも、そのときの気分で答えたりする。つじつまがあわなかったりする。

 つまり、人と人との関係や作業スケジュールが、きちんと管理されていないと、うまく機能しない。

 なにより、遠慮してしまう。特に、お互い、ある程度の「プロ」なわけで、それぞれの道徳観とか哲学とかを知らなければ、づけづけ聞いたり、言ったりしにくいもの。

= = = = =
 あぁー、書いて頭を整理するつもりだったのに、ますます混乱してくる。

 わたしは、放っておいて育つものではない。誰かに育ててほしい。誰かに構ってほしい。きちんと。その道がわかる、然るべき人に。でも、そんな人に出会うために、自分で努力する体力も時間もコネクションもない。いつか出会えるようただ祈っていられるほど、現実はのどかではない。

 ひとりじゃ、絶対無理。
 自問自答も、限界。
 誰かに、助けてほしい。

 「大丈夫」と自分で分かっていても、それを、人から言われると、その「大丈夫」は100倍頼もしくなる。「よかったね」と自分で言うより、人から言われたほうが、100倍嬉しい。

 「自問自答システム」も、いつか実を結ぶときが来るだろう。でも、団体は、人材を育成することに力を入れないと、給料の無駄払いだ。なにより、「自問自答」している本人が、実を結ぶ前に、潰れてしまう。精神的に、相当強くないと、「自問自答」なんてやっていられない。

 そうそう。わたしも、そろそろ、潰れてしまうーーー。


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