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日本語教師になるには - その壱 [つぶやき]

 「どうやったら日本語の先生になれますか?」と質問されて、どう答えるか。

 A 「お金を払えばなれますよ」
 B 「大学や専門学校で勉強したらなれますよ」
 C 「日本語が母語だったら、就労ビザさえあればなれますよ」

 ・・・A, B, C, いずれも、正解。

 では、それぞれについて、わたしの超個人的なビリーフを含んだ説明をする。

A 「お金を払えばなれますよ」

 3つの選択肢のうち、どれが「絶対なれる度」が高いかというと、わたしはAだと思う。そう、お金さえ払えばなれるのだ。

 日本語教師という職業は、非常にあやうい。資格は、ない。免許も、ない。だから、「誰でもなれる」という状況もありえるわけで、そうなると、雇用条件は幅広くなる。下手をすると、「買い手(雇い手)市場」になる。安い給料でもいい、むしろお金を払ってでも、日本語教師になりたい、という人がいれば、お金のほしい団体は、そっちにふれるかもしれない。

 「とにかく、どんなものか、この目で確かめたい!」という人にも道が開けているわけで、こういうチャンスを利用するのも、手かもしれない。わたしは、このような選択肢に反対はしない。これをきっかけに、この仕事に目覚め、勉強を始め、結果、その後立派に職業として日本語教師を続ける人も、多くいることだろう。

 「能力がないのが分かっていて授業をするのは無責任だ」、「日本語教師という仕事を趣味かなにかとはき違えている」、「きちんと勉強した人の雇用機会を奪うのはよくない」という声もあるかもしれないが、雇用環境というのは、個々で大きく異なるわけで、その場に直接関わる、<雇い主(受け入れ先)><雇われ手(参加者)><学習者>の間である程度、納得がなされていれば、問題はない、とわたしは思う。

 <学習者>のことを、よーく考えなければならないのは当然であるが、だからと言って、知識も経験も豊富な人がベストとは言い切れないはずだ。彼らの求めるものは、一様ではないのだから。

 よくあるのが、欧米などでTA、つまり、ティーチング・アシスタントをする、というケース。現地の言葉(多くは英語)も上達する!という売り文句がついていたりする。こういうところは、そもそも「アシスタント」なのだから、責任が軽い。その反面、大した経験は積めないかもしれない。しかし、このように、「経験もない人には大切な仕事をまかせない」という、学習者を大切にする当然のことが行われているところでは、教育の水準が高いことが多く、本人のやる気次第で、いい勉強になるかもしれない。

 そのほか、発展途上国など、日本と物価が著しく異なる国では、「現地で生活できるぐらいのお金」が給料として支給されるのも、よくあるケース。往復の航空券や引っ越し費用、保険、ビザの取得などは本人持ち、となり、結果、足が出る、ということも少なくない。しかし、このような職場での可能性は、まさに未知数で、通常の職場ではまさかできないような仕事ができたりする。それを、一生懸命試行錯誤をしながら経験として積んでいくか、それとも、「どうせ大した給料もらってないんだし」と言って、適当に流すか、それは、本人次第。

 単に、その地でロング・ステイがしたいから、とか、その地の言語を習得したいから、という理由だと割り切って、日本語教師の職を「その場にいられる理由」にする人もいると思う。わたしは、そういうのに、反対しない。そのように、生活が精神的に充実していて、その土地やそこで話される言語、文化、人々を愛しているということは、その人の人柄を豊かにするだろうし、それは、きっと教育にもあらわれる。もちろん、仕事をまともにこなさないのは問題である。さぼってはいけないし、目の前の学ぼうとする人に親切でなければならない。それは、人間として基本中の基本だから。とはいえ、言語的な質問にずばりと答えることができない、などは、たいしたことではない。なんといっても、この仕事、「人そのもの」が商売道具だ。知識は、それを強化するものにすぎない、とわたしは思う。自信で、日々精進すれば、よい。

 現実的な、就職の場合の話。まず、英語圏などのTAを、経験として考慮しない、という機関は、少なくない。ボランティアも、然りである。だから、「経験年数」に計算できないという点で、TAの道は履歴書上で不利かもしれない。一方、途上国での、低賃金での就労は、「経験年数」に加算されるはずだ。

 いずれにしても、それは、履歴書上の話。それらの経験から、自分は何を得、何が成長し、何を考え、それを次にどう生かすことができるのか、それについてしっかり自分の言葉でアピールすることができれば、よい。

 この業界、謙遜は損以外のなにものでもない。売りにできるものがあるなら、自信を持ってどんどん出したほうがいい。

 投資は必要だが、「実際の経験を積む機会が得られる」という点では、お金を払ってでも現場に関わるという、このAの選択肢は、悪くないと思う。そこまでした経験で、結局何も得られないような人は、きっと、そもそもこの仕事に向いていない。それを見極めるためにも、悪くない選択肢だと思う。

 次回、その弐は、B「大学や専門学校で勉強したらなれますよ」について、書く。

(異論、反論、質問、言い足りないので付け加え、など、なんでもコメント、大歓迎です)


言語能力に対する印象 -文字と音声 [Writing]

 最近、タイの人とやりとりをしている。そのときに感じたこと。

 最初は、メールのやりとりだった。使う言語は、英語。タイ側の彼女からのテキストを受け取り、わたしがそれに返信をする、ということを何度かした。

 彼女のメールのテキストは、タイプミスが多かった。文法も間違っているところがあった。彼女のラストネームは欧米っぽいけど、ファーストネームはまさにタイのそれなので、きっと、日本語ネイティブのわたしがそうしているように、あちらのタイ語ネイティブも、よっこらよっこら英文をタイプしているのだろうな、と思っていた。

 「あなたの英語はまだまだよ」という見方では全くないけど、ただ、言語能力としてそうなんだな、と思っていた。

 彼女のテキストは、タイ語の影響かどうなのか分からないけれど、ときどき尻切れとんぼで、「だからどうしたらいいの?」「それでどうしたいの?」と聞きたくなるようなことがときどきあり、何度もやりとりをすることになった。ちょっと疲れてしまって、最終的に、わたしが国際電話をかけることになった。

 そして、電話口に出た彼女。英語ネイティブだった。わたしの耳には。

 会話の進め方、話す内容は、英語ネイティブのアメリカ人とは確かに違う。しかし、流暢さ、語彙の豊富さ、あいづちのうちかた、発音、声のトーン、そのあたりは、まさにネイティブだった。
 
 文字という形で外的に明確に表されると、問題にならないぐらいの小さな間違い、違いに気が付いてしまう。コミュニケーションに全く支障がなくても、どんなに小さくても、ただ「間違いがある」というだけで、全体の印象に少なからず影響を与えてしまう。ライティングだと正確性に、スピーキングだと流暢性に、どうも注意が向いてしまう。評価の対象としてしまう。

 改めて、文字情報とは、おそろしいものだと感じた。


被験者の心理 実験者の心理 [つぶやき]

 朝、再放送されていた、ビートたけしがやっている『○○アンビリーバボー』という番組を観た。おおまかな内容は・・・

 ある社会心理学者の行った実験。牢獄での看守と服役囚の心理を探るもの。牢獄に蔓延する、看守による暴力や支配者的なねじまがった意識がどのように生まれるのかを捉えるのが目的で、疑似的につくられた牢獄で、実際に、被験者に看守役と囚人役になってもらって、自由に暮らしてもらった。被験者は、健康な大学生で、実験の内容を細かく聞かされて、それに了解した者。相当の額のお金をもらうことになっていた。

 実験者であった○○教授は、「何も指示されなくても、元々は全くそのつもりがなくても、ただ、看守と服役囚という人間関係があるだけで、看守はえらそうに、そして、暴力的になるのだ。人間とはそういう生き物なのだ。」という予測を持っていた。

 で、実験が走り始めると、おもしろいように見事に、予測通りに被験者たちは動く。むしろ予測以上に、早い段階で、悲惨な状況になった。服役囚役の学生は人権を侵害されるようなことを看守役の学生にさせられ、なかには精神に異常をきたす者も出てきた。

 実験者の○○教授は、それを見て・・・「やった!思った通りだ」と喜ぶ。アシスタントをしていた周りの大学院生が、「これ以上続けるのは危険です」と言ったが、「これは重要な実験なのだ」と言って、中止にしようとしなかった。

 結局、状況を心配した牧師が弁護士に訴えて、実験は中止になった。○○教授は、自分が暴走していたことに、やっと気が付いた。教授は、その後2年にわたって、被験者全員に対し、カウンセリングなどの心理療法をほどこした。「あんなに冷静で、厳しく、真摯に研究をする人なのに」と○○教授のニュースを聞いて周囲は驚く。

= = = = =

 少し考えさせられた。

 わたし自身は、実験を行う、心理学的手法をつかった研究をしている。しかし、それは、認知心理学であって、社会心理学や、臨床心理学のような、「メンタル」な面には興味のない学問だ。「メンタル(心)」ではなく「ニューラル(脳神経)」。だから、基本的に、異なる学問だ。

 しかし、わたしは、この教授の心理がとてもよくわかる。そして、「自分も気をつけないといけないぞ」と自分に言い聞かせた。

 実験者は、実験の結果を予測して、その通りになると、喜ぶ。その「予測」が、この例のように、悲惨なものであり、研究もそもそも「こんなに悲惨なことって起こりうるんですよ」を社会に訴えたい、という目的であっても、喜ぶ。元々が道徳的な意識で始められた実験であっても、悲惨な状況が生まれると、喜ぶ。それは、実験の成功を意味するから。

 被験者は、事前に詳しく説明を受ける。そして、それを了承したうえで、実験に協力する。実験を行っている時点で、被験者は名前を失い、ただの被験者番号を持つ人になる。実験の手続きとして、これは大切なこと。実験者の目にも、被験者は、生身の人間というより、結果を生むコマのように映る。実験である以上、これもよくあること。

 それが、怖い。

 第一言語について、成人を対象に行う実験で、しかも、知らず知らずの間にやっているようなミリ秒単位の言語処理を見ようとする研究なら、問題ないだろう。しかし、第二言語だと話は少し違う。実験といえども、それは、被験者にとって、学習の過程で遭遇するイベントになる。実験的に、人工的に、極端につくられた状況であるとはいえ、事前にその説明を受けているとはいえ、「うまくできなかった」「大変だった」などのマイナスの感情が、心の傷になるという可能性は、ゼロではない。

 勉強している言語がなかなか思うように上達しなくて、はがゆい思いをしている人が被験者になった場合、実験的に、さらに悲しい成績を残すはめになったら、やっぱり、それは、悲しい。

 もちろん、こちらも、「これはあなた個人の能力を測るものではありません」「テストではありません」「評価することはありません」などと、あれやこれやと説明するけれど、でも、普通の人には、そんな実験的な背景なんて分かるはずがない。悲しいものは、悲しい。

 そして、その「悲しい」が、実験者にとって「嬉しい」であることも、ある。ここで挙げた例のように。

 わたし自身も、被験者が思ったよりも成績がよくて、がっかりしたことがある。隣で見守りながら、間違えろ、間違えろ、と心で祈ったこともある。

 今のところ、わたしの行った実験に協力して、心の傷ができた、という声は聞いたことがないけれど、普通そういうものは、実験者の耳には届かないものだ。どこで、だれが、どのくらいのサイズの、どんな思いをしているか、わからない。

 でも、やっぱり、実験は、被験者の顔をのっぺらぼうにして、擬似的に環境をつくって、意図的に結果を出そうとするもので、そこは変えられない。

 しかし、大変極端な話だけれど、被験者の心に悲しい気持ちを生んでしまう可能性も、ゼロではない、ということは、知っておかないといけないな、と思った。

 ・・・という堂々巡り。
= = = = =
 ある実験の被験者になった友だちの話。実験者が知り合いだったということで、こっそり自分の結果がどうだったのかを、実験の数日後に聞いた。そうしたら、「外れ値だったから、除外したよ」と言われた。その子は憤慨した。個人差を認めないのか、と。自分だって、人間なんだぞ、と。(通常、いかなる理由であれ、実験結果は、実験者以外が知るはずがないのがセオリーだけど。)

 わたしは、それに対して、「外れ値は除外しないといけないものだよ」と言った。それは、統計としても、そうするのがセオリーなのだ、と。そこは、譲ってはいけないところ。方法としては、厳しくしなければ。そのぶん、標準偏差が大きいことなどをつっこんでその実験を批判していけば、実験の計画としての穴が見つかって、被験者の設定や、そもそもの研究の発想から問題があったことになる。そういう切り口で議論が進むはずだ。

 そういう厳しさもいるけど、被験者の心理にも配慮しないといけないな、と、今朝テレビを見ながら思った。そういう意味での「心理」に興味を持っていない実権だからこそ、気が付きにくいことかもしれない。

 そういう意味では、言語処理の単純な実験でも、承諾書にサインを求めるアメリカの実験の進め方は、その危険性をよくわかっているのだろう。


修士論文が審査されました [つぶやき]

 日本の大学院を修了するには、修士論文が審査を通らなければいけない。わたしの論文はというと、7月末日に提出し、8月8日に審査が終わった。

論文題目:『第二言語としての日本語の書記産出行為における書字と音韻使用 ー記憶資源の観点からー』

 長い。自分でも不覚ではあるが、こればっかりは仕方ない。

 「日本語教師」と呼ばれる仕事についてから、わたしは実は、ずっと悲しんでいた。ときどき、腹もたてていた。

 学生が書いて提出したものを前に、

「○○さんこんな初級文法間違えてる。やばいよ」
「さっきできてたのに、次で間違えてる。読み返せばいいのに」
「このひと母語の作文もあやしいんじゃないのかな」

 などの言葉に。

 そうかもしれないが、しかし、これは、然るべきケアをした教師にのみゆるされる愚痴のはずだ。

 自分が第二言語でライティングをすると、絶対わかるはずのことを棚にあげて、学生の不勉強を責めるのは、間違っている。

 第二言語で文章を書いて、さて、完璧にできることってあるだろうか。そうそうない。わたしは、まず、ない。では、知らないことだからできていないのか、というとそうでもない。語彙や文法を直されて、「あーなんでわたしこんなこと間違えたんだろう」と悔しくなったりする。簡単なことでも間違えるのだ。

 それが悔しいと分かって、何度も読み返したりするが、それもそれで辛い作業で、結果的にライティングが時間と精神力のやたらかかる作業になってしまう。

 英語母語話者の、特に英語教師志望者なんかに添削されると、「英語の文章というのはねー、こういう構成になっているんだよ。覚えておいたほうがいいよ」などと言われたりして、「そんなん日本語も一緒じゃ」と吠えたくなることもある。「知っとるわい」と。でもできないんだ、と。それは、本当に、悔しい。自分が、頭が弱いと思われたようで、母語の日本語はきっと論理的な言語ではないんだ、とか思われたようで。

 成人だと、母語そのものや、母語での言語能力まで勘違いされて、それは、辛い。この人って雑だ、読み返さないなんてやる気が足らない、のように、性格だって疑われかねない。

 ・・・という発想そのものは、これまでもあって、それは、ピア・レスポンスや、読み返しを促す、などといった活動に繋がっている。1度でできなくていいんだよ、みんなで考えたら、ちょっとずつできるようになるよ、という感じ。

 ダメだとは言わない。でも、わたしが学習者だったら、なんだか子どもじみていると思う。「1度でできなくてもいいんだよ」って言われたって、1度でできるに越したことはないし、それを望む気持ちをへし折ることは教師にはできない。これは、大人の理性だ。

 ピア・レスポンスは、車いす。わたしが考えるのは、リハビリ。

 歩くのが大変な人に、「車いすがあるから大丈夫ですよ」というのも、ある。そうとしか言えないときも、ある。しかし、「一緒にがんばって歩けるようになりましょうね」とも言えるはず。

(この流れでいくと、文法の誤用ミスを指摘する、などという行為は、「足がちゃんとあがってないですよ」とか「ひざ曲がってないですよ」などという言葉を投げかけているようなもの。当の本人が、そんなこと分かっている場合、これほど腹のたつ言葉があるだろうか。しかも辛いのは本人だけ。もし、辛い目に遭っている人に手を貸して助けることをせずに、外野から指摘だけをするなんてことがあったら・・・もう、それは人として問題でしょう?)

 どうやったらリハビリが効果的にできるか、つまり、どんな運動をしたらどこの筋肉に届くのか、こういう症状の人はどこの筋肉が弱いのか、そういうことを知っていないと、いいリハビリはできない。

 それを「少し」明らかにしたのが、わたしの論文だ。

 理学療法士の友だちと、研究について、数時間まじめに話し続けたことがある。わたしたちの考えは、とてもよく似ていて、お互いびっくりした。わたしたちは、ふたりとも、患者さん(or学習者)の持っている力を信じたいと思っていた。できる力を引き出せるよう、何か手伝えないか、と考えていた。そして、それは理学療法士の彼としては、「当たり前でしょ」という感じ。

 そう。そうなんだ。教師、とかく言語の教師は、そんな当たり前のことも忘れてしまっていることが多い。言語ができると、できない人に対して、えらそうになったり、かわいそうだと思ったり、よしよし、と思ったりしがちだ。そんなのおかしい。普通に接するべきだ。成人なら特に。その人の持っている能力を尊重するべきだ。

= = = = =
 と、力が入ってしまったが、わたしの論文の背景にあるのは、こういった考え方だ。わたしは子どもの頃から、人の言うことを聞くのがだいっきらいだった。人に教えられるのも嫌いだった。それから、少しませていた。子どもだったときも、先生に「よしよし」扱いされると、むかっとした。高校生のとき、「です・ます」を使って、学生たちを、「みなさん」と呼ぶ先生は、大好きだった。

 だから、自分が教師になった今、自分のような学生がいても大丈夫なようにしようと思っている。
 
 だから、研究をしても、そこだけは押さえたい。わたしたちは、たくさんの能力を持っていて、それを認めてもらわないといけない、ということ。

 少々、雑な文章でした。すみません。力が入ってしまいました。


今はアメリカではありません [全体]

ご報告です。

アメリカの某大学大学院の留学期間を終え、今は日本におります。日本の某大学大学院で、研究を相変わらず進めております。基本的な生活活動は、大して変わりません。

このところ、投稿がとどこおっており、良くない、良くない・・・と思いながら、そのままです。ええ、自分のための「非公開」投稿も、滞っています。

しかし、研究って面白い!と思っているのは、今でも相変わらずで、それについて、「もっと考えたい!」としみじみ思っています。7月いっぱいで、今の忙しい時期が一段落する予定なので、それから、また投稿を再開しようと思っています。

この、blogという媒体で、これからも、自分の理解を深めていきたいです。

それから、アメリカの大学院と日本の大学院について、その相違点やそれぞれの長所・短所、などについても、雑感・主観を書いていきたいな、とも思っています。

あ、コメントには答えていくつもりです。何かありましたら、いつの記事でも、どんなことでも、どなたでも、書いていただけたら、と思います。よろしくお願いいたします。


気が付いたら [全体]

2000を突破していました。

カウンターの話です。
みなさん、当ブログにお越し頂き、ありがとうございます。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

こんなブログ、誰が見るのか?
暗いし、頭もかたすぎないか?
トピックが一般向けではないけど?
読んでいて意味が分かるのだろうか?

と思いつつ始め、しかし今も、かたくなに真面目路線、自分中心路線で進めてきています。

わたくしmamemamaは、実はもうひとつブログ(「ハワイイと猫とわたし」)を書いているのですが、そちらより、こちらのブログほうが、1日のヒット数は、倍かそれ以上なのです。しかも、最近は、「ブロック」をかけていて、外見からは、記事は更新されていないはずなのに・・・。はて・・・。

なにはともあれ、こんな色気のない、超がつくほど自己中心的な、遊びのないブログに来て頂いて、ありがとうございます。よろしかったら、足跡を残されていってくださいね。前の記事にでももちろん結構ですので。コメントをお寄せくださいませね。

   たまには写真をば。

Papayaの実って、こんな風になるんですよー。上のほうが、baby papayaですね。下のほうは、もうmarketに並んでもいいぐらいな立派さ?見えますか?

私はまだ、babyぐらいの実もつけていません。これから精進して、小さくてもいいので、味のつまった、自分の手で育てた実を、いつか実らせたいと思います。


[連絡]ブロック機能作動中 [全体]

 最近、しばらく記事が更新されないなーと、もしかして、そんなことを思っている方がいらっしゃるでしょうか。

 実は、しています。ばんばん。

 blogの機能で、投稿者しか見られないようにする、というのがあるんですが、それを使っています。元々、自分のための研究ノートとして始めた当blogですが、「自分のため」がもっとシリアスになって、「他の人に見られちゃ困る」に発展したので、そんなブロックをかけている次第です。

 記事を期待して、当blogに来てくださった方、どうもすみません。ただ今、大変自己中心的なblogになっています。

 考えすぎかもしれませんが、自分の研究のネタを、この無限に広がるインターネットの世界に流すのが、とても怖い、というのが、その理由です。私の、大切に育ててきた子たちを、そんな野ざらしにしては、いつさらわれてしまうやら分かりません。あ、やっぱり考えすぎ?

 でも、研究って、競争ですよね。いつ、自分のアイデアが盗まれる、というか、先を越されるか、分からない。医学、や物理学、その他理系の世界だと、本当に、本当に、こういうのってシビアですよね。

 とかって書いたら、「何、こいつ、そんなにすごい研究しとるんかい?」と、逆に狙われたりして。あ、ますます考えすぎ?

 とりあえずご報告まで。

(こんな機能は、他のblogにもあるのかなー)


理解と産出は労働量が違う [つぶやき]

 おもしろい現象が身近に起こったので、書き留めておきます。

= = = = =
 友達のIssとおしゃべりをしていました。彼は、英語母語話者ですが、沖縄在住歴長し&沖縄loveレベルが高い、ということもあり、とても流暢なうちなーぐち(沖縄の言葉)を話します。日本語学専攻で、アカデミックな日本語にも触れることがおおいはずです。そして、私のほうは、というと、もちろん日本語母語話者で、で、さして日頃のおしゃべりにはそこまで苦労しないぐらいの英語はできます。日頃、英語でアカデミックなことまでしています。つまり、わたしたちは2人共、完成度は別として、さして混乱をきたさずに第二言語(Issは日本語、わたしは英語)でやりとりができるわけです。

 しかし、私も彼も、かなり疲れていました。お互い体調も万全でなく、何より、寝不足でした。

 でも、私たちは、おしゃべりがしたかったのです。だらだらと、下らないけど、でも、好きなこと(沖縄の音楽とか三線教室の練習の様子とか)について、話すことはいっぱいありました。久しぶりにおしゃべりをしたので、近況報告のレベルでも、話題は盛りだくさんでした。

 で、私たちがどのように会話をしていたか、というと、それぞれが、自分の母語で話していました。そして、それぞれが、相手の発話をばっちり理解して会話を進めていました

 聞く(理解する)のはいいのですが、話す(産出する)となると、なんだか大変なのです。疲れるんです。しんどいんです。もう、2人とも、他の自分の研究のことで、頭は疲労しきっているのです。で、これ。

 それに加えて、Issは英語の先生歴あり、わたしも日本語の先生歴あり、という背景を持っている。おせっかいながら、「第二言語でやりとりするのは、いくらか勉強になって、良いだろう」という教育学的考えも、多かれ少なかれ持っていたはずです。実は、要は、自分が面倒くさいだけなんだけど、「だからまあ、いいか」という甘えがそこから来る、ということです。で、これ。

 具体的には、

Iss: How are you doing?
mame: あー、ぼちぼち。Issはどうよ。
Iss: Yeah, I'm fine, I やめた job in Japanese restaurant.
That's why I'm fine, haha.
mame: Wow. え、あの、角のレストラン?
Iss: Yeah. 水が合わなかったわけ。
mame Metaphonically, 水が合わない?
Iss: You know, they're trying to make their restaurant kind of a...
mame: 豪華な感じじゃろ?
Iss: And traditional, yeah.
mame: 分かる、分かる。

 こんな感じ。この調子で、すっごくスムーズに会話が進むんです。で、話し手の感想としては、とっても「楽」でした。

 このストーリーから、何を感じるか、というのは、これを読んでらっしゃるみなさんに、感想は委ねます。色んなことが言えると思います。おもしろくないですか?


言語情報と非言語情報 [Psycholinguistics]

先日のhabu2さんにいただいたコメントに触発されて、この記事を書き留めておくことにしました。
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 認知心理学と認知言語学と心理言語学。この三角形の関係を考えると、重なりが多く、でもここは絶対違う、というのもあり、ふと思い出して考えても、いつまでたっても終わりがない(以前は、認知言語学と心理言語学との違いについての記事を書いた→こちら)。

 この3つの中で一番大きいのは、圧倒的に認知心理学だ。ここで「大きい」、というのは、「興味の対象が広い」、という意味だ。あとの2つが、「言語」が根本的に関わっているのに対して、認知心理学は、私たち人間が知覚する情報全てを研究対象としている。そして、その情報のひとつに「言語」がある。(前にも書いたが)認知言語学は、認知心理学の考え方をベースにして「人間って実は、言語とこんな風に関わっているんだよ」というのを明らかにするのに、専ら努めている。一方で、心理言語学はというと、「言語そのもの」に、ものすごくミクロな単位の純粋な興味を示し、行き着くところも「言語とは」なのだが、その行き着くまでに、「私たち人間という媒体が言語という情報の処理に関わっている」、というところを踏まえている。

 心理言語学は、「私たちは一体、どう言語を理解したり、どう言語を産出したりするんだろう」という疑問を持っているのだが、その「言語」について考えると、どこからが「言語」で、どこからが「言語じゃない」のか、その境界線はとても曖昧なようで、でもはっきりしているようで、なかなか難しいのだ。そこで、心理言語学と認知心理学との違いを考える。

 私たちが知覚したり産出したりできる情報は、複雑で、種類を分ければ数限りない。自分の五感を駆使し、また、相手が五感を駆使することを想定して、驚くほど色々なことをしながら私たちはコミュニケーションを行っている。表情、体の動き、声の音量、声の高低、沈黙の利用、などなど。この中で、一体どれが言語(処理)に関わり、どれが言語(処理)に関わらない、と言えるだろうか。

 雑音の中で、なんとかがんばったら相手とコミュニケーションが取れるのは、どうしてか。一体、身の回りであふれかえる情報の中から、どのように私たちは意味を抽出しているのか。自分が全く知識のない言語だったら、それは周りのノイズと全く同じと言えるだろうか。いや、やはり、言語にしかない何かがありはずだ。

 例えば、2人の面識のない人間がいるとする。2人は、共通の言語を持っていない。ただ、無意味な音を発し続ける条件、そして、意味のある言語をなんとか伝えようと話し続ける条件があるとする。この2つの条件で、被験者2人を観察すれば、あらゆる面で全く異なるだろう。それは、容易に想像がつく。もしかしたら、2人は、あるレベルまでコミュニケーションに成功するかもしれない。

 だとしたら、はっきりとした「文法」「語彙」のようにはならないものの、言語を常に支える、もしくは、言語に常に関わる情報、というのがあるのではないだろうか。

 私が今学期履修しているpsycholinguisticsの先生は、prosodyを交えた言語処理の研究者として、世界的に注目されている人だ。彼女のprodsodyの話を聞くと、本当に言語とは魅力的で、しかし言語とは未知の部分が多い、と感じる。Prosodyが言語処理に関わっている、という視点を打ち出して、では、どこに関わっているのか、いつ関わっているのか、などなどと、興味は尽きない。

 心理言語学では、彼女がprosodyに視点を置いたように、私たちが知覚するあらゆる情報の中から、言語処理に関わるものを研究対象に設定することができるだろう。しかし、意外と、まだまだ未知の部分が多い。私が今ここ(具体的には、5つ前のブロック)で挙げたものの中で、どれほどの情報が、言語処理と交えて研究がされているのだろうか。

 ということで、最初に戻るが、やはり、私の頭の中で、三角形は関わり続けるのだ。


言語的情報とworking memory [Cognitive Psychology]

 今日のクラスで読んだ論文に、working memoryが関係するものがあった。で、先生が、クラスの中で、working memoryについて明るくない学生のために、簡単に説明をした。

 それが、私には、・・・へ?だった。

 Verbal(言語的)なものは、すべて、phonological loopに行くのだと、Verbal以外が、visio spatial sketch padに行くのだと。

 そーなん?そーなん?ほんま?衝撃だった。

 つまり、文字もphonological loopに行くわけで、それって、どうやって説明できるの?謎は深まる。私は、今でも、先生の説明は自分の聞き取りミスだと思っている。

 その論文というのは、Chenoweth and Hayes (2003) Inner voice of writingだったのだが(近いうちに要約を書きます)、彼ら自身、working memoryと絡めたmodelを出しているし、そのモデルが、上に書いたような考えに基づいているとしたら、それは、それは、もう大変なミスではないか?ちなみに、Kellog(1996)のa model of working memory in writingでは、phonological loopもvisio spatial sketchpadも、両方関係していたぞ。

 先生にメールを書いて、真偽のほどを確かめよう。結果は、追ってまた書きます。(やっぱり聞き取りミスだったー、となる可能性、あり)

(Chenoweth and Hayes, 2003は、research questionは興味深いのですが、実験のデザインや結果の分析が、どうも「粗い」ように思えて、この論文をどう扱ってよいものやら、最近、困っています。私は、言語心理学の実験的研究に明るい方、そうじゃなくても、これに真摯な興味のある方と、これについてディスカッションがしたいです。今日のクラスは、ちょっとえらそうな書き方をしますが、ディスカッションを深めるには、人数が多すぎたし、背景知識に差が大きすぎました。無念。量的・実験研究は、知識がないと読めないし、その知識から説明しないといけないとなると、ディスカッションは進まないのです。)


文処理研究で用いられるタスクたち [Psycholinguistics]

Simpson, G. (1994). Context and the processing of ambiguous words. In M.A. Gernsbacher (Ed.) Handbook of Psycholinguistics. San Diego: Academic Press. 359-374.

 2月上旬の週の、クラスのreadingだった。タスクについて整理したくなって、もう一度読み返している。短くて読みやすい。Ambiguous word[曖昧語]の処理の研究について書かれているが、sentence processingの研究で用いられるタスクがいくつか紹介されていて、良い勉強になったarticle。

(日/英入り交じっての記事です。不明な語がありましたら、コメントで聞いてください。また、引用している文献について詳しくお知りになりたい場合も、聞いてください。)
= = = = =
Ambiguity detection method
1) 同形異義語で終わる文を呈示
2)その語に、alternative meaningがあるかどうかを、被験者はyes/noで反応
-->その文が、less frequentの意味に偏っているほうが、RTsは短い
==>more frequent meaning is activated initially
(on-lineの処理を抽出するタスクとしては、弱いのが弱点)

Priming tasks
1) 曖昧語のある文を聞く
2)targetが呈示される
3)naming task/lexical decision taskで被験者は反応
-->on-lineの様子が抽出できるタスク
-->他のタスクに比べ、異なる意味の活性化度の違いをきちんと見ることができる
-->prime呈示とtarget呈示の時間差を操作することで(例えば、文中のどこにprimeを持ってくるかを操作)、time course of meaning activationを見ることが可能

Word recognition tasks
-->いくつかある中で、lexical decision taskが最近(このarticleの出版は1994年)活発
-->他に、naming taskもこれに含む
==>lexical decision taskは、"context-dependent view"に基づいているタスクである
==>naming taskは、"initial activation processing"を見ているタスクである
-->signal-detection taskもこれに含む
-->stroop taskもこれに含む

*****留意点!
-2つのタスク(prime, target)をすること自体、本来の文理解とは異なる環境であり、実に、実験室的なデータしか得られない[実生活の文理解は、そんなに簡単に切り取れるもんじゃない、ということ]
-2つのタスクをするということは、その2つのタスク同士が、影響し合うことも留意する必要がある。タスクそのものとしても、primeやtargetの材料としても。例えば、prime語が、文中にあう場合と文末にある場合とでは、前者のほうがextra resourseが求められるわけで、両者を単純に比較することはできない。

ということで、2つタスクをしない、そのまま脳の活動を見る研究・・・
Event-related potential(ERP)study
-->priming studyの結果を食い違うこともある
-->initial processingにおけるcontextの役割を見ることができる [on-lineの様子を、まさに見ることが出来る方法なんだから、当然といえば当然]

〜〜Ambiguous word の研究について色々書かれているが、ここでは読み飛ばし〜〜

実際の実験例
Swinney (1979)
- cross-modal procedure
 聴覚呈示後、targetをcontextually biased/otherの2条件で視覚呈示。直後呈示条件と、3syllabus delay呈示条件が設けられる。これをlexical decision taskで反応。
-->contextually appropriate meaningの活性化は、delay呈示時のみにみられる

Paul, Kellas, Martin, and Clark (1992)
-stroop task
曖昧語で終わる文を呈示後、contextual meaningに沿っている語とそうでない語を、0, 300, 600msで呈示。
-->contextual meaningに沿っているときのほうがRTsが長い(0ms interval条件でもそうだった)

〜〜その他、色々あるが、今回は割愛〜〜
(ambiguous word processingに興味のある方は、どうぞ、じっくり読んでみてください)


学生の作文に教師はどう答えるか [Writing]

Goldstein, L. M. 2004. Questions and answers about teacher written commentary and student revision: teachers and students working together. Journal of Second Language Writing. 13. 63-80.

 今日の9amからのクラスのリーディング。簡単にまとめる。

 タイトルの通り、学生の書いた作文に、教師はなんと答え、どのように答えたらよいか、について考えているペーパー。具体的にどのような手段があり、その場合は、何を考慮すべきか、どのような危険性があるか。学生のcommentaryに対する態度のバリエーションは、何を意味するのか。教師は、どのようなことに盲目になってしまう危険があるか。等について書かれている。

 短いペーパーだ。読みやすい。現場で、このような問題に直面している教師には、ありがたい1本かもしれない。特に、具体的に、commentaryにはどのような手段があるか、などでは、communicativeな活動がまだまだ浸透していない感のあるL2日本語のwritingクラスでは、耳を傾けても良いところが多いだろう。実際、Goldsteinは英語教師で、これをTESOL conference(世界のL2英語教師が集まる学会)で発表してとのことなので、現場に焦点をあてて書かれているのも、うなずける。

 反面、広く、浅い。わたしは、ここが物足りない。純粋な「研究」ではないから、仕方がないのか。

 以下、私のbiasの入った要約(私のbiasは往々にしてとても強い)。
= = = = =
 (大大大前提:このwritingのcommentaryというのは、いくつかの段落があり、トピックのある文章を書くwriting taskで行われるものが想定されている。Linguistical features(i.e. grammatical accuracy, sentence complexity, etc.)の到達度をチェックしようとする目的はない。

○"appropriation"と"helpful intervention"
appropriation: 学生の目的を無視し、教師の目標を学生の目標にスライドし、学生がそれを書いた意図を汲むことなく、「修正」を行うこと
helpful invention: 学生がどこまでできたかを示し、学生に違う角度からもう一度考えてみることを提案し、適切な言語表現が見つけられるように、その文章から何が言いたかったのかを問いかけること
 -->"helpful intervention"はとても聞こえが良い。鵜呑みにしてしまいそうになる。が、よく読むと、結局、建設的でないcommnetaryになってしまう危険性も多い。注意しないと、あまりに抽象的になるかも(<--ココ、あとで出てくる)

○commentaryの手段
 "cover letter"は、文章を書いた紙とは別に、何が言いたかったか、何が心配か、何を見て欲しいか、などを学生が書いて一緒に提出するもの(<--私は、これが学生のL1でできたら良いのに・・・と思う)。"conference"は、面と向かい合って、話すこと(<--これは、燃費が悪そうだが、あとでどうしても必要なときが出てくる)。

○学生のcommentaryに対する態度
何も考えずに、教師のcommentaryに沿うばかりの学生、逆にcommentaryを全く無視する学生、どちらもいる。前者を「良い学生」、後者を「問題学生」と捉えたら、大間違い。どちらも、additional careが必要な学生。特に後者。Writing自体に不安を持っている、などの問題であるなら、conferenceなどを行い、声を聞く必要がある。前者については、教師の自分の"power"を振り返る必要がある。クラスを「支配」していやしないか。

○学生の声を聞こう
「一度ペンを置いて、メッセージを読み、意見を聞くことに集中してみよう」とな。よく考えれば、よく考えなくても、当たり前のことだ。L2言語教師は、時として、当たり前のことをすっかり忘れてしまっている。文章を読むのだから、文章の内容に集中するのは当然(<--ココ、mamemama意見)。Macroに考えよう。

・・・あ、クラスに行かないといけないので、また続きは次回。


ひとを測るものさし [つぶやき]

 「mamemama、英語、教えたことある?」

 SLS(Second Language Studies:L2教育について考える研究)のクラスでディスカッションをしているとき、ときどきされる質問。私は、この質問が、大・大・大嫌いだ。「言語教育=英語教育」と思いこんでいるのがしゃくに障るところは、もちろんのこととして、教師経験を知って、それでどうなるんだ、と言いたい。

 私は、日本にいても、実年齢より若く見られることが多く、それがここ米国にいると、なおさら若く見られる。さらに、そこに拍車をかけて、私の使う英語は、満足なアカデミック英語でもなく、そのたどたどしさに、クラスの英語の先生(もしくは予備軍)(<--クラスメートは、だいたい英語教育関係者)は、私について「まだまだフレッシュな、言語の先生を夢見る若者」という先入観を持つ。

 悪いが、私は、履歴書上、「夢見る」どころか、「新米教師」はとうに卒業していて然るべきところまで来ている。

 でも、「それがどうした」と言いたい。

 「○○年、教えてます」や、「○○で教えてました」など、自分のバックグラウンドを前面に出すのは、変な先入観が先立って、その人の持っているもの、考えていること、視点のするどさ、などを靄に包んでしまう。実際の経験からしか出来ないコメントというのは、確かにあると思うが、しかし、個別的な例(「こんなことが授業であったんです」「学生からこんなこと言われたことがあるんです」など)を挙げることより、その次、「だからどうした」のところ、その個別例から何が言いたいのか、のところが欠けていれば、全く意味はなさないと思う。

 全く教師経験がない人だって、言えることは、山ほどある。逆に言えば、何にも染まっていない分、純粋なするどい視点でものを言うこともできる。その人の発言について、経験の有無やその年数、どこの学校を卒業しただとか、バイリンガルかそうじゃないかとか、そういう情報は、余剰なもの。

 私は、教師になって1年目のとき、「1年目だからって、なめんなよ」「若いからって、なめんなよ(当時は、実際に若かった)」と思って、ぎゃーぎゃーと発言していたし、それで良かったと思っている。そんな私を、「新米なのに、こいつ」という目で見る人は、なんとかわいそうな人か、と思っていた。

 経験も、学歴も、そのときから見れば随分膨れあがった今、そういう私のバックグラウンドを知って、「ははー(頭を下げている)」と、なんでも言うことを鵜呑みにされ、ディスカッションにならないこともある。困る。良くない。私は、まだまだ発展途上だし、間違うことだってざらなのだ。履歴書上は成長したかもしれないが、私の中身、質は、関係ない。そんな定規で、人を測られたらたまったものじゃない。

 最初の質問をされて、こう答える。

 「ないよ、全然」

 本当にないもーん。英語教えたことないもーん。

 それを聞いて、質問した人は「じゃあ、語ってあげるよ」的に色々と話したりする。で、それに「でも○○じゃんか」「○○なのは、一般化できると思う?」「つまり○○ということ?」などと食らいついて、「!?」という顔をされる。そこからディスカッションは始まって、お互い、考えが偏っていたところ、実は自分のアイデアはなかなか素敵だったこと、などに気が付く。グループのメンバー同士、色々と学び、色々と考え合う。私も、少なからず、それに貢献する。

 私のバックグラウンドを全く消して、私の考えを聞いてもらおう。日本語教師というマイノリティーは、便利だ。


お知らせ - Critical pragmatism(3) [Culture]

 お知らせです。

= = = = =
 このblog始まって以来の最大コメント数をたたき出した(といっても大した数ではないですが)、Critical pragmatismシリーズ。しばらく更新できていない。

 というのも・・・。

 このトピックについて勉強したクラスで、Taking stock assignmentと名付けられた、「今までの勉強を振り返って、まとめて、考えて、それを提出する」という宿題があった。そこで、このcritical pragmatism周辺の、もろもろについても書いた。色々と考えることもあり、クラスでディスカッションした以上のことも、筆の勢いにまかせて、書いた。

 すると、「mamemama,ちょっと待って」と、クラスの先生からfeedbackが。

 「それ(critical pragmatism)について、in personで話さない?」とのこと。彼女は、今まで私が、psycholinguisticsの、実験的な研究に主に興味を持っていた、質的な研究については、理解が浅かった、という経緯をよく知っている。私が、自分の領域外の(critical pragmatismは、私の研究テーマからほど遠い)ことに、そこまで踏み込んで考えないことを、よく知っている。そして、それに、ちょこちょこと「もっと視野を広げてみない?」というサインを送ってくれていた。

 今まで受けた「サイン」の中で、今回は一番大きな音のサインだった。「間違ってるわよ」というサインではないと思う。ただ、アプローチについて、彼女が心配するところがあったのではないかと思う。

 ということで、critical pragmatism含め、その周辺の、culture、rhetoric、についてのことは、彼女と話してから、ここでは書こうと思っている。

 今、本業(?)の実験のほうで、デザインにあーだこーだと頭をもんでいるところ。今週末、それから(一時的に)開放される予定なので、それから彼女とじっくり話したいと思っている。
= = = = =

 (4)は、ずいぶん先になると思います。興味を持ってくださったかた、すみません。また覗いてください。

 さて、実験、実験・・・。


Cognitive Psychologyのテキスト [Cognitive Psychology]

 今学期履修しているクラスのうちのひとつ、"Cognitive Psychology"、日本語で「認知心理学」のクラスでは、この本をテキストとして使っている。

Cognitive Psychology And Its Implications

Cognitive Psychology And Its Implications

  • 作者: John R. Anderson
  • 出版社/メーカー: Worth Pub
  • 発売日: 2004/12/01
  • メディア: ハードカバー


 このテキスト、本当に「テキスト」だ。どういう意味かというと、初心者にも分かりやすく、太字や挿絵を入れながら、分かりやすく説明してくれている。とっても親切である。このクラス、履修しようかどうしようか、実は最初迷っていたけど、テキストを立ち読みして、履修することを決めたのだ。

 ただの用語説明、セオリー説明だけではなく、実際行われた実験について、たくさん、そして詳しく取り上げているのも、とても勉強になる。このおかげで、CogPsychoの論理の展開がつかみやすくなった。

 このテキストだけでも、十分な情報量だが、実際のクラスでは、先生がその3倍ぐらい細かく、でも分かりやすくPower Pointを使って説明してくれる。やっぱり、ただ本を読むのと、先生(これがまたかっこいい)が、口や手やら色々使って騒がしく説明してくれるのとでは、大違い。クラスは、とっても楽しい。

 80人以上はいようか、という大きなクラスだが、毎回必ず、Participant Demoというコーナーがあって、そこでは、テキストなどに紹介されている実験を、立候補した学生が被験者になって、実際に前でやってみる。

 「げー、さっきはできたのにー。なんでできないの?」とか「あ、間違えた。あ、また間違えた。ぷぷぷー。」などの、被験者の様子を目の当たりにできて、実験の仕組みが頭に残りやすい。ふむふむ。

 実は、今日、この"Cognitive Psychology"のクラスのmid-term(中間試験のようなもの)があった。Chapter 13のうちの、1~5が出題範囲。情報満載だった。ふらふらだった。私の脳は、フル回転だった・・・。

 素晴らしい手応えは、残念ながらなかった。でも、お手上げでもなかった。結果どうこうより、「勉強って楽しい」と本当に思わせてくれるクラスで、一区切りついて、自分の頭も整理できて、「私、まだついていけてるな」という感触がある。そのことが、嬉しい。

 来週から、またがんばろう。

(英語で書かれた認知心理学関係の論文を多く読まれる方は、このような本を1冊持っておかれると、辞書代わりにもなって便利かもしれません。最後についているIndexや参考文献一覧、などは、とても便利です。)


ネコ温度計について [全体]

 このblogのサイド・バーでのどかな空気を醸し出して、ソファーでごろごろしているネコくん。みなさんは、ネコくんソファーの下にある「猫ぽち」をクリックして、私の暮らす街の気温をご覧になったことはありますか?

 実は、この猫くんは、Internet Exprorer(IE)にしか、対応していません。Safari等、他のブラウザを使われた場合は、猫くんが足跡をつけてどこかに逃げて、残されたねずみくんが???となっている、ちょっと切ない画面を見るはめになってしまいます。

 いつもSafariをお使いの方、そんなに毛嫌いせずに、久しぶりにIEを開いて、猫くんに気温を体で伝えてもらってみてください。IEユーザーだけど猫ぽち未体験、という方は、どうぞ、今、お試しください。はい、ぽちっ。

 など言いながら、かくいう私自身が、実は長年のAppleユーザー、Safariユーザーです。そうそう、色々書いている私が、一番、IE苦手さん。ずっとMac上でIEを使っていたのですが、何人ものAppleユーザーに???という顔をされ、じゃあ、と乗り換えたところ、それ以来すっかり一途なSafariユーザーです。IE、久しぶりに開くと、なんだか野暮ったく感じてしまうのです(Appleユーザーの方、分かります?)。IEでないと表示されないサイトなどに遭遇したら、ちょっと一瞥をくらわして、もう見てやらん!ぐらいの気持ちになることも、・・・ええ、あります。

 Fire Foxなど、どうなのでしょうね。試してません。

 どなたか、「裏テク」を発掘された折には、コメントしていただけると、嬉しいです。

 寒いところに、お住まいの方、ちょっとこちらの温度をご覧になって、ネコくんと一緒に穏やかな気温をお楽しみください。


教室の壁全部が黒板だったら・・・ [Pedagogy]

 あるクラスの、今学期が始まってから今まで、class meetingでどんなことをディスカッションしたか、ということについて振り返っている。

 たくさんのことを話した。たくさんのことを学んだ。

 で、ふと思い出した、先生の言葉。

 そのとき、彼女はある研究領域における派閥の、それぞれのposition、相互の関係、歴史的流れなど、について説明していた。白熱してきた彼女が、文字がつまりにつまって、もう余白のなくなってしまった黒板を見て、一言。

「教室の壁全部が黒板だったらいいのに、って私いつも思うのよっ!」

 熱い勢いを、黒板の面積という限りある物に邪魔された彼女の憤りを見て、「本当に、今、壁全部を黒板にしてあげたい・・・」と、そのときは単純に思った。

 少し時間がたった今、その彼女の言葉を振り返ってみると。それって、とても面白いアイデアだ。

 教室の前側にしか黒板がない、という設計は、つまり、主に黒板を使うのは教師で、学生たちがそれを使うには、先生に「どうぞ」と言ってもらわないといけない、ということだ。これって、不公平である。もし壁全部が黒板だったら、学生たちから教師やクラス全体に対して、もっと積極的アウトプットができそうである。Interactionの多いクラス活動ができそうである。

 例えば、「グループディスカッションをして、その結果をまとめてクラスで発表してください」、のような教室活動をする場合。それぞれのグループが、近くの壁に、結果を書いて、もしくは書きながら発表できたら、とても素晴らしいと思う。

 他には、日本語教育なら文字の練習で、もう、壁中にめちゃくちゃに書きまくる、という楽しい活動もできる。小学生のころ、書道の授業で、水だけをつけた筆で黒板に文字を練習したのを思い出していただきたい。あの、何度でも練習できる、思いっきり書ける、人の書いたものに気軽に茶々が入れられる、という空気は、とても気持ちがいいし、間違えるのも怖くなくなるし、クラスも学生個人も活発になると思うのだ。

 教室にいる全員が平等にチョークを持って、書く場所を持っている、という開放感。ちょっと想像してみる。床にチョークの粉が散らばって大変だ、というぐらいしか、マイナス面が思いつかない。

 だれか、新鋭建築家でも、そんな教室を設計してみてくれないだろうか。あ、いや、工具店に行けば、黒板用ペンキは売っているから、自分で作ればいいのだ。どこか、そんなものにチャレンジしてくれる教室はないだろうか、と思う。

 私が、いつか自分の教室を持つようになったら、このアイデアは絶対実現させたい。


科学技術論文(日本語)の書き方 [つぶやき]

 日本の大学院の先輩が、ゼミの掲示板でこんなページを紹介してしていらっしゃった。

 「科学技術論文の書き方」
http://www.okada-lab.org/~okada/Ronbun.html

 まだよく読んでいないが、さっと目を通しただけでも、「え」「そうなの?」「げ」「むー」の連続だった。具体的で、でも、文体は親しみやすく(「!」とか「ね」とかが入っている)、プリント・アウトをして手元に置いておく価値大、と判断した。このblogでも、できるだけそれに沿って書いていこうか、と思う。

 まず、ひとつ。句読点は、「、」「。」は縦書きの場合だけで、横書きでは使用不可、とのこと。

 で、さっそくトライ!・・・したが、私のATOKでは「,」と「.」の全角が出ない。どうしたものやら・・・。

 以前の職場で、上司が、神懸かり的に体裁や言葉遣いに細かく、そこでずいぶん鍛えられた。全角、半角の使い分け、フォントの選び方、句読点の打ち方、漢字変換、動詞の選び方、などなど、ずいぶん叱られた。「こんな構成がなってない文章、読めない」と真っ白な原稿をつきかえされて、泣いたこともあった。そして、頑固で負けず嫌いな私は、強くなった。その職場を去ったあとも、自分で教材やテストを作るときなど、ずいぶん気にするようになった。

 で、いざ気にするようになると、結構楽しくなる。味をしめた、というべきか。体裁や言葉遣いがきちんととれているテキストは、とても読みやすいのだ。「無標」なので、文章そのものに、素直に集中することができる。人に、自分の書いたものの内容についてきちんと目を向けてもらいたければ、その周辺での騒音はゼロを目指さないといけない、ということ。

= = = = =
 ちなみに、英語圏に来て、英語で勉強する環境に身を置いて気が付いたが、こちらは、根っから体裁に厳しい。提出するものについて全て、必ずと言っていいほど、体裁についてのinstructorの要求が出される。Times New Roman, 12point, double-spaceというのが、最もよく提示される体裁。こんなこと、今まで日本の大学、大学院で言われたことは一度もない。

 どうして、そんなに体裁に厳しいのか。体裁がきちんとしてなかったら、gradingに響くぞっ、という脅しの、ネガティブな意味は薄いと思う。instructorの先生は、学生15~20人(or more)の提出したペーパーを読まないといけないのである。そして、きちんと平等に、書いたものについての成績をつけないといけないのである。内容に先生が集中できて、そしてその先生の下す評価に、「字が小さくて読みにくい」、「行間揃えろ(怒)」などの「逆ハロー効果」などが影響しないように、という、これは先生の愛ゆえの配慮だ、と思っている。

 日本の大学院の先生方に「愛」がない、というつもりはないが、そんなことを常に学生に要求する体質を、どこかの研究室なり、講座が持つとしたら、それは素晴らしいことだと思う。「えー、そんなの大変じゃん。あたし、性格的に無理」と言う学生もいるかもしれない。しかし、最終的に、学生たちは論文を書かないといけないわけで、追い込みのときに始めて体裁について真剣に気にするようになって四苦八苦するよりも、日頃から気を配るように指導されていたほうが、苦しみも減るというもの。やはり、教育者の愛、だ。

 米国の大学では、学部生の必修科目として"English writing"がある。わざわざ、授業を開いて教えてもらえるなんて、素晴らしいと思う。どうして日本にはないのだろう。なんだか、色んなポリシーがあって、基準というものがなくて、で、教えられる人もいないから、なーなーになっているような空気も感じる。学生としては、教えて欲しい。もっと言えば、ディスカッション技術や、口頭発表技術も、教えて欲しい。

 少し前、Linguistic departmentのセミナーで、英語論文の要旨の書き方についての勉強会が開かれた。私が今履修している、Psycholinguisticsのクラスの先生が話してくださった。学生たちの色んな細かい質問に丁寧に答えてくださった。とっても具体的でためになる勉強会だった。日本でも、日本語の論文でも、こういう場をもっと設けてほしい。
= = = = =

 私がここで書いたようなことを、今まで、考えたことがないか、苦手だからといって見て見ぬふりをされていた方。具体的で個別的な技術はともかくとして、とにかく、「体裁の整っている文章はかっこいい」という価値観を持つことから始められるのはどうだろうか、と提案したい。だって、本当に気持ちがいいから。

(今日、とある性格診断テストで「自分のことを棚にあげて、他人を攻撃する傾向がある」という結果が出た。このテスト、なかなか当たるようだ)


The Critical Pragmatism of Alain Locke - Critical pragmatism (2) [Culture]

 Critical pragmatismは、言語教育の分野だけのものではないようです。文化人類学、哲学、みたいなところが、出発点のようです。こんな本をみつけました。著者のLeonard Harrisは、哲学学者だし。

The Critical Pragmatism of Alain Locke: A Reader on Value Theory, Aesthetics, Community, Culture, Race, and Education

The Critical Pragmatism of Alain Locke: A Reader on Value Theory, Aesthetics, Community, Culture, Race, and Education

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: Rowman & Littlefield Pub Inc
  • 発売日: 1999/04
  • メディア: ペーパーバック


Psycholinguisticsの"Psychology"とは [Psycholinguistics]

 "Psycholinguistics"という言葉は、日本語では言語心理学、もしくは心理言語学、と訳されるもので、ひとつの学術分野である。"psycho(=心理)"と言葉の中に入っているが、psychologyの中でも、neuropsychology(脳神経心理学?)やcognitive psychology(認知心理学)辺りの、"psychology"だと、私は解釈している。

 これを、違うpsychologyだと思っている・・・の・・・かな?という場に出くわしたことがある。

 私は、心理学に広くないが、その人は、臨床心理学とか、社会心理学のように捉えていたのではないか、と思う。Psycholinguisticsという学術分野について、「言語が関わる、人間の心理」と捉え、例えば、言語と感情(楽しい、嬉しい、はずかしい、等)だとか、言語と人間関係(社会参加、関係修復、集団内行動、等)だとか、そんな風に、その人は捉えていたのではないか、と思う。

 違う。全然、違う。

 と、言えなかったが、やっぱり言いたい。違う。

 Psycholinguisticsは、とても科学的だ。人間をコンピュータのように考えている。どんな信号を送って、どんな信号を処理して、何と何だとバグが起こって、クラッシュして、云々。まさに、コンピュータだ。

 Linguistics(言語学)は、まさに言語そのものを見ようとする学問である。で、Psycholonguisticsは、言語を用いる、ヒトを見て、そこから言語について考えようとしているのではないか、というのが、今のところの私の解釈である。さらに、これは印象にすぎないが、Cognitive Linguisticsは、Psycholinguisticsよりも、もっと「ヒト寄り」だと思う。ヒトの認知的(cognitive)な活動について、言語を通して、その可能性や性格を探ろう、という学問ではないか、と思っている。

 なんだか、とても冷淡な世界のように思えるが、私は、そんなところの勉強をしている。そして、実験そのものや、ペーパーを読んでいると、全くその通り、冷淡だ、と思う。しかし、いざ、実験を組み立てよう、という側に立つと、研究の発想というのは、実に、普段の、自分自身の人間的な生活にアイデアが潜んでいることが多い。同音異義語をどうやって解釈しているのだろう?とか雑音で声が聞き取りにいとき、何が理解に繋がるの?とか、である。

 人間的な柔らかい発想で、広い視野を持ちつつ、同時に、冷たくて、客観的な、鋭い眼力で実験を組み立てていかなければいけない。

 やはり、一人では研究というのは無理なんだな、と実感する。誰かとディスカッションして進めていかないと、こんな大仕事はうまくいきっこない。


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